2004年8月のアテネオリンピック。男子100m平泳ぎ準決勝が終わった後平井伯昌は、北島康介が勝利に大きく近づいたことを確信した。
6月には膝に痛みが出て平泳ぎを泳げない状態になった北島。
その後のスペイン合宿で徐々に泳ぎを取り戻し、大会直前に何とか勝負できる状態まで持ってきていた。
それでもライバルのブレンダン・ハンセンに自己記録に近い59秒台前半を出されれば勝ち目はない。
そこで平井は予選から全力で泳ぐことを指示し、北島は1分0秒03のトップタイムを叩き出していたのだ。
準決勝でハンセンが北島を上回る1分0秒01で泳いでいたが、前半の泳ぎには焦りが見えた。
平井は「50mのターンからの15mの泳ぎは康介の方が0秒3〜4は速い。
ハンセンに前半を27秒台で入られても、75mでは追いつく」と考えた。
だが予選の北島の泳ぎは、ハンセンに思った以上のプレッシャーを与えていた。
決勝では「25mで少しだけ前に出てプレッシャーをかけてやれ」と言う平井の指示通りに泳ぐと、ハンセンは力んだ。
前半の50mは7月に59秒30の世界記録を出した時の27秒台にはほど遠い28秒22。
0秒04差で折り返した北島はターン後にトップに立つと、その後は乱れも見せずに1分0秒08で泳ぎきり、ハンセンに0秒17差を付けて金メダルを手にしたのだ。
中学2年の北島の目力の強さに、ハードな練習にも耐えられる精神力を感じで「一緒にオリンピックを狙おう」と声をかけた平井。
2000年シドニー五輪で最初の目標を達成しながらも4位でメダルを逃すと、「次は金メダル」と目標を変えた。
2001年世界選手権の200mで銅メダルを獲得すると、翌2002年の目標は世界記録樹立と公言してアジア大会200mでそれを実現させた。
さらにパワーアップさせて100mの前半を27秒台で入る可能性を試した後、「200mの大きな泳ぎを活かした方が康介の持ち味が出る」と判断すると、
「アテネで優位に戦うためには勝っておかなければいけない」と考えて臨んだ2003年世界選手権では、思惑通りに100m59秒78、200m2分9秒42の世界記録で2冠を獲得したのだ。
だがオリンピックイヤーには追い込まれた。
北島が絶不調の中、7月の全米選手権でハンセンが、59秒30と2分9秒04の世界記録を出したからだ。
その危機をバネに何とか調子を取り戻した北島。
平井は彼を勝たせるために予選からどう戦えばいいかと、作戦を細かく煮詰めた。
それが見事に当たった。予選の北島の泳ぎは、ボディーブローのようにハンセンの意識に影響を与えたのだ。
それも時間をかけてスタートの技術やターン後の泳ぎの技術を磨いてきた、平井の長期的戦略があったからこそでもある。
2種目目の200m。100mで完勝した北島に敵はいなかった。
思い通りの泳ぎをして2冠獲得。平井と北島は日本水泳会の歴史を切り開いた。