小学3年で初めて大阪の体操の名門・マック体操クラブに行った時、
当時中学2年だった1996年アトランタオリンピック代表の田中光がやって見せた
ゆかのC難度の力技を難なく再現していたという米田功。
彼が自分の才能の高さに気づいたのは高校に入ってからだった。
まったく練習していない技でも、他の人がやるのを見ているとイメージが沸き、やってみると出来てしまう。
仲間に「お前すごいな」と言われるのが嬉しかった。
高校を卒業して順天堂大学へ進んでも、それは同じだった。
3年生になった1998年には、NHK杯で高校時代からのライバルで第一人者になっていた塚原直也を破って初優勝をしたが、練習には身が入らず、
「練習をやって強くなるのは当たり前。やらなくても強くなるにはどうすればいいか」と考えているほどだった。
だから手首を痛めてシドニーオリンピック代表を逃した時も、
「本気を出せばオリンピックへいけるから。まあいいか」と軽い気持ちでいたのだ。
そんな米田の意識が変わったのは、補欠として行った2003年世界選手権だった。
この年は最終選考会まで代表入りを確実にしていながら、平行棒で集中力を欠きミスが続いた。
出発前の競技会では6種目の総合で代表全員を上回るトップになりながらも、本番では補欠として観客席にいたのだ。
そこで見たのは、後輩の富田洋之や鹿島丈博がプレッシャーのかかる大舞台でノーミスの演技をしている姿だった。
思ったのは、「大会でいい演技をする」という前提で練習をするのではなく、「絶対に失敗しない」と思ってやることが必要。
練習でしっかり自信をつけなければ、試合では気持ちで負けてしまう、ということだ。
眠っていた才能を目覚めさせた米田は2003年の日本選手権で初優勝をし、
翌2004年のNHK杯でも優勝してアテネオリンピック代表を決めた。
「26歳でやっと代表になれたのも、自分にとっては良かったと思う」と話す米田。
主将として臨んだアテネでは予選は6種目に出場して1位通過の原動力になると、
決勝ではゆかと跳馬、鉄棒に出て28年ぶりの王座奪還に貢献した。
さらに個人総合にも進出して11位になり、2種目出場した種目別では鉄棒で銅メダルを獲得。
遅咲きの天才はアテネでやっと、大輪を咲かせた。