20歳だった1995年に世界選手権初出場を果たし、世界との戦いの第一歩を踏み出した室伏広治。
2000年には一流の証である80m超えを実現し、9月のシドニーオリンピックこそ9位にとどまったが、その直後に開催されたグランプリファイナルでは2位に。
翌年の世界選手権ではシドニーオリンピック王者のポーランドのシモン・ジョルコフスキーと大接戦を演じて2位と、世界のトップクラスに駆け上がった。
体格の優位性では欧米の強豪に引けをとる室伏。その差を埋める為に、自らの技術を磨き上げることに集中し続けた。
そのひとつの結実が2003年6月のプラハ国際。84m86の投てきだった。
この記録は92年以来の誰もがなしえなかった84m台で現役世界最高。
世界歴代3位の大記録。
父・重信氏は「あの頃の投てきを見て、世界の誰もが広治には適わないのではないか」と話した。
そんな彼にも陰が忍び寄ってきた。帰国後の練習で腰を痛め、8月下旬の世界選手権の前には転倒して右ひじを強打したのだ。
危機的な状況の中でも世界選手権で銅メダルを獲得した室伏は04年、優勝を狙うオリンピックシーズンにも関わらず拠点をアメリカへ移してハンマー投げを改めてゼロから見直し始めた。
そして8月のアテネ五輪では念願の金メダル獲得を果たしたのだ。
だが室伏はその時、自分の体が悲鳴を上げ始めているのを自覚していた。
30歳を過ぎても世界で戦い続けるためには、変化する体と付き合い、新たなトレーニング法を確立しなければいけないと模索を始めた。その間、成績は徐々に下がった。
妹の由佳は「あの頃の兄は我慢しているというより、耐え忍んでいるという感じだった」と話す。
そんな中、5位に終わった08年北京オリンピック後にあったのが理学療法の重要性の認識と、そこから行き着いた人間本来の体の動きを取り戻すファンダメンタルトレーニングとの出会いだった。
徹底的なトレーニング管理と計画的はピーキングを目指した新たな取り組み。
それに積み重ねてきた技術が加わって結晶ともなったのが、これ以上ないといえる無理のない美しいフォームで手にした2011年世界選手権の史上最年長36歳325日の金メダル獲得だった。
12年ロンドンオリンピック銅メダル獲得を経て、今年彼がなし遂げた日本選手権20連覇の偉業も、
あとに続く選手たちに故障を軽減するトレーニング法を残したいという思いや、
日本スポーツ界にも貢献したいという思いを持つ彼の歩みの中の、一里塚にほかならない。