野口みずきは、満足することを知らないアスリートだ。高校時代は無名。
小柄なのにストライドの大きい走りはマラソン向きではないと周囲からは言われていた。
だが指導する藤田信之(ふじた のぶゆき)の、
「野口にはこの走りでマラソンを走らせなければ、世界には通用しない」と言う強い思いを受けて徐々に距離を伸ばし、23歳だった02年名古屋国際女子マラソンでマラソンデビューを果たして優勝。
翌年の大阪国際マラソンも優勝し、世界選手権では2位。その結果、アテネ五輪代表内定を勝ち獲った。
勝負の大舞台だったアテネ五輪は、32?まで長い登り坂が続くコースで気温は35度。
野口もスタート直前には恐怖感を感じるほどだった。だが号砲が鳴って走り出した途端、頭の中に残ったのは「給水は絶対に取れ」「25?からスパートしろ」という藤田の言葉だけだった。
藤田はレース後、「普通に仕掛けるなら30?過ぎだが、下りだと脚が長い外国勢相手に勝機はない。だから一番負担がかかるところで勝負させた」と語っている。
まさに野口が勝つにはそれしかないという必勝作戦だった。
25?を通過した野口は、給水を確実に取るためにペースアップした。
そして後続が離れたのを見て勝負をかけた。
追いすがってきたエチオピアのアレムが27?で離れるとそこからはひとり旅。
優勝候補の1人、ケニアのデレバが25?地点では集団の最後尾にいて、野口のスパートに対応できなかったことも幸いし、彼女の激しい追い上げを12秒差で退け、パナシナイコ陸上競技場にゴールした。
00年シドニー五輪の高橋尚子に次ぐ日本人の五輪連覇。
だが野口はそれに満足することなく、すぐさま自身の五輪連覇に照準を定め、05年ベルリンマラソンでは2時間19分12秒の日本最高記録をマークした。
そして07年東京国際女子マラソンでは、終盤に驚異的なペースアップで圧勝して代表権を獲得。五輪連覇へ向けての確かな手応えを得たのだ。
だがその快走が災いした。「絶対に金メダルを」という強い思いが練習をハードにさせ、08年北京五輪直前に左足太股付け根部分の肉離れを発症。欠場を余儀なくされたのだ。
それでも彼女は走るのを諦めなかった。長いリハビリを経て12年3月の名古屋ウィメンズマラソンで復帰。
ロンドン五輪代表は逃したが、まだ走り続ける意欲は衰えない。
「今指導してくれている広瀬永和(ひさかず)監督の自己記録は2時間18分55秒。いつかそれに挑戦出来たら最高ですね」と、穏やかな笑みを浮かべる。