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14.07.26
井上康生

東海大学の恩師・佐藤宣践(さとう のぶゆき)は、「100?級は天が井上康生にプレゼントしたような階級だ」と話した。

国際柔道連盟は1997年世界選手権終了後にカテゴリーを変更。
最重量の超級を95?から100?に引き上げたのだ。
常時100数?の康生のためと言ってもいいような階級だった。

「目指すのは最強」という思いと、兄・智和と同じ階級になるのに抵抗を感じて
100?超級にこだわった井上だが、東海大山下泰裕監督の
「まずは100?級で世界一になれ」という言葉で転向を決意した。
この階級は95?級だった時代から、日本が世界で勝てていない階級だったことも
その決意を後押しした。

そんな康生の世界デビューは戦列だった。
年明けからは急に勝てなくなって苦しみ、
6月には母・かず子さんの急逝という大きな衝撃もあった99年秋、
将来性を期待されて代表になった世界選手権は荒々しいまでの柔道で
世界の頂点に立ったのだ。だがそこで立ち止まるわけにはいかなかった。

世界選手権と五輪を獲って初めての世界王者というのが、
日本柔道界の暗黙の了解。1988年ソウル五輪以来遠ざかっていた五輪重量級の金メダルを、シドニー五輪で獲得すべき使命もあったからだ。
全日本の担当コーチだった高野裕光(たかの ひろみつ)の厳しい指導で
鋭いキレを身につけて望んだ2000年シドニー五輪。

康生は誰をも寄せつけないまでの強さを見せた。
試合になると相手が自分の柔道を研究してきていることに気がついたが、
冷静に隙を見つけると考えるより先に身体が動いた。

決勝でもカナダのギルに切れ味鋭い内股を一閃させ、
オール一本勝ちで五輪制覇を果たしたのだ。
試合後の表彰式で22歳の彼は、高々と母・かず子さんの遺影を掲げた。
幼いころから自分を支えてくれた母とともに世界一を祝福されようと。
それは額縁の表面のガラスを外すことを条件に、
係員が笑顔で持参を許してくれたものだった。

少しの油断も許さない、かんぷなきまでの凄まじい強さを見せた井上が、
表彰台で浮かべた笑顔は、小学生の時、
父・明に「僕は柔道をするために生まれてきた子だと思うんよ」
と話した時そのままの、どこかはにかみさえ感じさせる優し気なものだった。