“天才バレー少女”
それが、中田久美の代名詞だった。
1984年のロサンゼルスからソウル、バルセロナと3大会連続でオリンピックに出場。
ロサンゼルスオリンピックでは、銅メダルを獲得した。
中学2年の頃、当時女子バレーボールのエリート育成を目的に、人材発掘を行なっていた日立の山田重雄監督にその才能を見出された。
トスを上げ、アタッカーにボールを打ち込ませるセッターは、読みと瞬間的判断が求められるゲームの司令塔。
一人前になるには5年はかかるといわれていたが、それを中田は2年でクリアした。
天才と注目され、天才のひと言で片付けられるのを彼女は嫌った。
「だって努力しましたから」と中田は言う。
所属していた日立製作所の体育館には1か所だけ、床が白っぽく変色した場所があった。
中田が1人でトス練習を繰り返した場所が、大量の汗で変色したのだ。
さらに、朝から晩まで、味方の箸の上げ下げまで観察してクセや性格を把握。
ノート数冊分に相当するフォーメーションを頭に入れたうえで、
あらゆる可能性をシミュレーションした。
一瞬で展開の変わるコートで瞬時に判断して動く力は、与えられたものではなく、必死に積み重ねて身につけたのだった。
天才セッター中田久美を支えていたもの、それは、強靭な精神力と
全日本のエースセッターというプライドだった。