1981年1月7日、大阪・花園ラグビー場。
「泣き虫先生」と呼ばれた京都・伏見工業ラグビー部監督、山口良治は、大粒の涙を流しながら選手達に駆け寄った。
その涙には、監督に就任してからの6年間の思いが凝縮されていた。
校内暴力が世間を騒がせていた時代。
窓ガラスは割られ、廊下をバイクが走り回った。
京都イチ荒れた学校と呼ばれていた伏見工業に、当時31歳の山口は教師として赴任した。
ラグビー部の部員は20人いたが、練習に出てくるのは半数ほど。
さぼった部員を注意しても聞かない。
それどころか、バットを振りかざし、猛反発。
そんな選手たちに、山口は真正面からぶつかった。
毎朝早く登校し「おはよう」と声をかけ、粘り強く練習に誘った。
転機となったのは、1975年5月。
春の京都府大会、初戦。
強豪・花園高校と対戦した伏見工業は、為す術もなく得点され、0対112の屈辱的大敗を喫した。
選手たちは崩れ落ちて泣いた。
「悔しい!」
涙にぬれた手を互いに握りしめ、強くなろうと誓い合った。
かつての不良たちは、ラグビーにのめり込み、毎日倒れて動けなくなるまで練習した。
そして、あの悔し涙から1年。
京都大会の決勝に勝ち進んだ伏見工業は、決勝で花園高校と対戦し、18対12で勝利。雪辱を果たした。
次なる目標は全国制覇。
山口が赴任して6年目、伏見工業は2度目の全国大会に出場。
大阪工業大学高校との決勝は、3対3のまま終盤まで互いに譲らず、このまま引き分けかと思われた、試合終了1分前、伏見工業の左ウイング栗林がゴール左隅に飛び込み劇的トライ。
伏見工業が全国高校ラグビー大会で初優勝を果たした。
「信は力なり」
すさんだ生活から生徒を立ち直らせた熱血漢、山口良治が、大輪の花を咲かせた。