Legend Story
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15.10.24
瀬古利彦

80年代のマラソン界をリードした瀬古利彦。

早稲田大学時代、箱根駅伝のスターとなった瀬古は、マラソン界のホープとしても脚光を浴びた。
1978年、大学3年生で出場した福岡国際マラソンでは、宗兄弟とデッドヒートの末、マラソン初優勝。
翌年のボストンマラソンでは2位、福岡国際マラソンは2連覇。
箱根駅伝でも花の2区で区間新記録をだし、瞬く間に男子マラソン界のニューヒーローとなった。

当時「マラソンは負ける気がしなかった」と語るほどの強さを誇り、モスクワ・オリンピックの日本代表に選出。
瀬古は、金メダル最有力候補として期待されたが、不運な出来事が起きる。

日本は、政治的な理由から、オリンピックをボイコット。
それでも瀬古は、「次で勝てばいい」と落胆しなかった。

そして、金メダルの本命と目され、大きな期待を背負って望んだ1984年のロサンゼルス・オリンピック。
   
しかし、恩師、中村監督が病魔に倒れてしまったこともあり、瀬古は、メンタルコントロールが上手く行かず、本番前の最終調整でも脱水症状を起こしてしまうなど絶不調。

そしてオリンピック本番。
先頭グループで走っていた瀬古は、25キロ付近で脱落。
2時間14分3秒、14位という不本意な結果に終わった。

その後、中村監督の死去。
一年半にも及ぶ右足のケガ、左足骨折と試練が次々と訪れた。

瀬古にとって最後のオリンピックとなった1988年のソウル。
32歳、悲壮な覚悟で挑むも、結果は2時間13分41秒で、9位。
   

それでも、完走することで責任を果たしたという満足感から、ゴールインの瞬間は、両手を突き上げてガッツポーズをみせた。

瀬古のマラソン人生は、オリンピックのメダルには縁がなかった。
しかし、15回のマラソン競技会で、優勝10回という驚異的な記録は、日本男子マラソン史上最強のランナーと呼ぶにふさわしい。