上重聡さんは、1980年生まれ、大阪府のご出身。
高校時代は野球の名門、PL学園のエースとして、甲子園には1998年に春夏連続出場。とくに夏の準々決勝で対戦した松坂大輔さん擁する横浜高校との延長17回に渡る熱戦は、大きな話題となりました。
進学した立教大学では、東京六大学リーグで史上2人目となる完全試合を達成。
その後、日本テレビでアナウンサーとして活躍され、この春、フリーアナウンサーへと転身なさっています。
──上重さんといえば松坂世代。今振り返ってみると、本当にそうそうたるメンバーがいましたよね。
100人以上がプロ野球に行ったという世代なので。すごいことですよね。
レベルが上がったというのも、やっぱり松坂君の影響が大きかったと思います。私も春の選抜で初めて松坂大輔を見たんですが、ちょっと度肝を抜かれましたね。世の中にこんなすごい人がいるのかと。今まで見たことのないようなボールだったので。
──「松坂大輔」という存在を知ったのはいつだったんですか?
秋の大会が終わって各選抜に向けて雑誌が出るんですけれども、そこで「150キロ怪物現る!」みたいな表紙があったんです。それで、それが“横浜高校の松坂”と知って。
でも雑誌ってちょっと大げさに書いたりする場合もありますし、“いやいや150キロも出ないだろう”という感じだったんですが、春(の大会)に観に行った時、とんでもないなと思ったんです。打席に立ったチームメイトが、初めて青ざめて帰ってくるのがわかりました。
──今は甲子園のレベルが上がって、150キロを投げるピッチャーもいますが…。
当時は初めてだったんです。松坂と、沖縄水産高校からソフトバンク(福岡ダイエーホークス~福岡ソフトバンクホークス)に行った新垣(渚)。2人が150キロを出したので。
私は141キロぐらいだったんですが、自分たちの前の年の“スピードガンベスト10”みたいなところで言うと2位か3位ぐらいなんです。でも、その(松坂)世代だと、10何位ぐらいなんですよ。だからやっぱり、ピッチャーのレベルはものすごく高かったと思いますね。
(自分のチームが)春に(横浜高校に)負けてから、合言葉が“打倒松坂”“打倒横浜”にパッと変わったんです。普通に練習試合をしても、「いや、松坂のボールはもっと速い」とか、「こんなんで満足したら松坂は打てない」とか、基準が全部松坂大輔になったんです。これはたぶん、自分のチームだけじゃなくて、ほかのチームもみんなそうだと思います。“松坂を目指してみんなで頑張る”という構図が勝手にできていったので、レベルが上がっていったのかなと。
──“松坂対策”みたいなこともされたんですか?
実は、“夏の延長17回(1998年夏の甲子園準々決勝)”の試合の前日なんですが、我々も甲子園で試合があって、3試合目だったので、帰ってきたのが夕方だったんです。もう次の日は松坂と対戦するのは決まっているということで、一度学校に帰りまして、室内練習場で夜中の12時まで松坂対策をして。で、この“延長17回”は第1試合だったので、朝4時に起きて、8時30分に開始。それで2回に3点を取るという。
──学校に帰ってやった対策は何だったんですか?
後輩のピッチャーが全員10メートル前から全力で投げて、それを打つという。
──ピッチャーとバッターの間は何メートルでしたっけ?
18メートルです。その10メートル前から投げてもらって、150キロ対策をする。
最初は当たらないんですけど、それがだんだん当たるようになってくるんですって。無駄な動きを全部省くようになるんだそうです。
でも私は、その練習の時、1人だけ温泉に浸かっていたんです(笑)。前の試合で投げて、次の日も登板があるだろうから、近くの温泉で疲れでも取ってきなさいと言われて。私は温泉に浸かりながら、“みんな帰ってこないな”って(笑)。
──ピッチャーの特権ですね(笑)。
一番バッターの田中(一徳)という後輩が、(横浜高校との準々決勝の初回で)セカンドゴロかショートゴロだったんですけれど、(打席から)帰って来て、「いけます! 打てます!」と言うんですよ。いや、アウトやんって思ったんですけど、「いけます! 先輩みんないけますよ!」と。それで2回に3点取るんですよ。カッコよくないですか?
──これは勝てるぞと思いました?
不思議な感情なんですけれども、普通3点を取ったら、「ヨシ!」じゃないですか。でも、我々は春から打倒松坂、打倒横浜でやってきたんですよ。いやいや、いきなり3点も取っちゃって、簡単に勝ったら面白くないよ、みたいな。「横浜もっと来いよ! 松坂、本気出せよ!」みたいな感じになっているんです。このままあっさり勝っても面白くないと。
なので、次の4回に横浜が2点取るんですけど、「来た来た! よし、来たぞ!」と。点を取られているのに何か嬉しがっているみたいな、「これでこそ横浜だよ! これで終わらないよな!」みたいな、そういう感じだったんです。
──そこから手に汗握るシーソーゲームになるわけですよね。上重さんも7回から登板して、その時はどういう心理状態でしたか?
春からやってきたことはすべて出そうと。自分たちもこれだけやってきたんだという自信を持って7回のマウンドに立って、三者凡退で抑えたので、「よし、今までやってきたことは間違っていなかったんだ」みたいな、何か確信みたいなものは得ましたね。
──そこから延長になったわけですけれども。
延長に入ってからの松坂大輔はすごかったです。特に200球を超えてからがすごかったですね。延長に入ってからの方が球速が上がっていくんですよ。150球ぐらい超えたあたりから、どんどん速くなってきて。
なので、延長は、ほとんどうちは三者凡退なんですよね。私はもう、ランナーを出して満塁を何とか凌いでゼロ、みたいな感じなんですけれども。
何か、お互いの持ち味を出し合いながら投げ合えているということが、すごく私は嬉しくて。マウンドで別に言葉を交わすわけではないんですけれども、(松坂選手が)“よし、俺はゼロで抑えたぞ”とボールをマウンドに置いて、そのボールをまた私が取って、“俺も今度はゼロで抑えたぞ”みたいな…ボールを通じて無言の会話をしているみたいな感じがしたんです。延長に入ってから、勝つとか負けるとかいうところを越えて、“もうこのままずっと試合が続けばいいのにな”と思っていたんですよ。“ずっと続いてほしい”と。
なので、負けた瞬間も、“負けた”じゃなくて、“あの時間が終わってしまった”みたいな…。
──終わってちょっと笑っていらして。勝った横浜の選手は涙して。充実感みたいなものを感じていらっしゃった?
延長16回に1点ずつ取って、17回で決まるんですけれども、ここにもドラマがあったんです。
その時に高校野球連盟の人がお互いのベンチに来て、「この試合、18回で引き分けの場合は、翌日午後1時から再試合をやります」という連絡が入ったんです。でも、ちょっと待てよと。今日松坂が18回投げたら明日は投げないなと。そうすると、我々は松坂を倒したくてやってきたので、今日の試合で決着をつけないと松坂に勝ったことにはならない、というベンチの雰囲気になって、16回からまたゲームが動き出すんですよね。
そういうスイッチの入り方があったんです。そういうドラマもあったりしました。
──高校野球は特別な舞台だからこそ、そこに憧れて野球を始める子供たちも多いだろうと思いますが、これからは少ない子供たちをどうやって(他のスポーツと)取り合うかということになっていきますね。
特に野球の場合は人数もそうですし、グラウンドもそうですし、道具というところもあるので、今野球をする子供たちが少なくなっているというのは野球界にとっては1つの危機かなと思いますが、大谷選手のようなスーパースターが出てきてくれて、また「僕も野球を」というような流れになってくれればいいなと思いますね。
夏には松坂君と2人で野球教室をやったりします。野球界にお世話になって、フリーになっても野球関連の仕事をいただけたりしていますし、やっぱり野球に助けられているなと思いますので、自分も、野球に“恩返し”ではないですけれども、何かできればなとは思っています。
──この番組では、ゲストの方にCheer Up Songを伺っています。今週も上重聡さんの心の支えになっている曲を教えてください。
KinKi Kidsの「硝子の少年」です。
私は第70回選抜高校野球に出させていただいたんですが、その行進曲が「硝子の少年」だったんですよ。
ただ、選抜大会では、第1日第1試合だったんです。ということは、入場行進の次にすぐ試合なので、その試合のことで頭がいっぱいで、入場行進の記憶があまりないんですよね。上の空で入場していたことを覚えています。
──PL学園といえばそうそうたる先輩たちがいらっしゃいますけれども、そういうOBの方は、学校に来てくれたり、声をかけてくれたりするんですか?
たまにあるんですけれども、一度、この延長17回の試合の後に、立浪(和義)さんと片岡(篤史)さんがグラウンドに来てくださって、我々に言葉をかけてくださったんです。立浪さんは「よく頑張った、またPLの名を上げてくれてありがとう」と。片岡さんは「とは言っても、松坂はお前らの同級生だぞ。悔しくないのか!」と言っていたんですが、(片岡選手とプロに入った松坂選手との)初対決で、空振り三振ですよ(笑)。“ほら見たことか、松坂、すごいだろう!”みたいな(笑)。
そういう意味では、(自分は)もう松坂ファンなんですよね。“俺たちの松坂大輔”なんですよね。
──その松坂選手が、肩を壊して、あれだけ故障があって、最後、ストレートが全然スピードが出なかったわけじゃないですか。その姿を見てどうでした?
実はあの前の日に、荒川の河川敷で2人でキャッチボールをしたんですよ。最後の投球の前に。「明日投げなきゃいけないので、キャッチボールに付き合ってくれないか」と。
本当に…あの150キロの剛腕が、もう私のところに届くまでも必死なぐらいのボールで、ちょっと涙が出てきまして。“ああ、松坂大輔にも、いわゆる終わりがあるんだ”と。“今、その瞬間を見届けているんだ”という、何かちょっと切ない…やっぱりファンだったので、あの松坂大輔の姿を見られなくなってしまうという、松坂大輔にもついに終わりが来たのかというのは、すごく寂しかったですね。
でもそれぐらい頑張ってきたんだ、酷使してきたんだと思うと、“お疲れ様”という感じでしたね。
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