江尻慎太郎(えじり しんたろう)さんは、1977年、宮城県仙台市のご出身。
東北No.1進学校、仙台第二高等学校を卒業後、2年間の浪人生活の末、早稲田大学社会科学部に入学。
2001年のドラフト自由獲得枠で日本ハムファイターズに入団。
その後、横浜ベイスターズ、福岡ソフトバンクホークスと3球団を渡り歩かれ、一軍では通算277試合登板。28勝20敗1セーブを記録しています。
2014年シーズンをもって現役を引退され、現在は、AcroBats(アクロバッツ)株式会社の代表取締役社長としてご活躍なさっています。
──AcroBats(アクロバッツ)株式会社は、何をする会社なんですか?
福岡ソフトバンクホークスの100%子会社なんですけれども、主に引退したアスリートの活躍の場を作っています。簡単に言うと、プロ野球の解説者の派遣や講演会など、イベントに元アスリートを派遣して、アスリートと社会の接点をつなぎながら豊かな社会を作っていこう、という会社です。
──セカンドキャリアといっても、野球寄り、スポーツ寄りの仕事を作る?
例えば講演会とかですと、それ自体はスポーツと全く関係なかったりしますし、企業の人材育成ということもあります。
もちろんスポーツイベントとか、野球に限らず、いろんなアスリートの方を福岡に限らず(派遣して)、各地のスポーツ振興に協力する。(そういう事業を)今、どんどん拡大していっているところです。
──江尻さんはセカンドキャリアについてはいつ頃から意識されていましたか?
現役の時は、ほぼ意識していなかったです。
正直、野球界だけで活躍をして、(現役時代は)ライバルにはダルビッシュ投手などがいたので、ああいうピッチャーになりたいなと思っていて、その後も監督やコーチとかになれたらいいなと、辞める直前まで考えていましたね。
──2浪してまで早稲田に入ったというのは、その“セカンドキャリアで(役立つように)”という思いからではなく?
全く(そうではなかった)ですね。
僕は、実は慶応大学に行きたくて、慶応大学を(受験して)現役、1浪、2浪で、合計6学部で落ちているんです。
高校3年生の時に、慶応大学の後藤寿彦監督がわざわざ仙台二高(仙台第二高校)まで来てくださって、「うちの大学でプレーしてほしい」というようなことを仰ってくださって、それはもう、行きたくなるじゃないですか。で、現役、1浪、2浪と(受験に落ちて)行けなくて。それで、2浪して(併願で受験していた)早稲田(に進学)、という形ではありました。
──すごく複雑な思いで早慶戦を投げていたんですね。
そうですね。だから、“絶対に(慶応には)負けたくない”と思いまして。絶対に抑えてやろうと思って、3年間慶応に落ち続けましたけど、(早慶戦で)3勝できたんですよね。なのでそこは“やったぞ!”と思いました。
──セカンドキャリアについて考えられたのは、現役を終えてから?
終わってからですね。終わってから、やっぱり野球界ではなくて、ビジネスに一歩踏み出してみようと。そこに行ってから考えようという感じですね。
──実際にビジネスマンとして仕事を始めて、戸惑うことなどは?
何もわからなかったです。名刺の渡し方もわからないですし、電話の取り方もわからない。私はIT企業、IT流通商社だったので、そこで扱っている商品がデジタルマーケティングツール、パソコンのソフトウェアの中身だったんですが、何一つ言葉がわからない。会議に出たら、100語ぐらいわからない言葉が残って帰ってくるんです。もう、全部外国語。それこそ外資系のベンダーさんとかとやり取りをして、もう本当にわからない。デスクに戻ってきて、たどたどしい手でパソコンを触って、その言葉を調べてメモして全部それを潰していって…という形でやっていましたね。毎日、頭から煙が出てるなと思っていました(笑)。
──しかも、入社した時点で、年下の人たちが社員としてはベテランですから、それもまた大変な思いをされるんじゃないですか?
“絶対に追いついてやろう!”と、人の何倍もスピードを上げてやろうと思いました。
だから、プロ野球時代にやってきたことって、そういうことをやるためのトレーニングだったんだなと今は思っているんです。“俺はビジネスマンになってからの活動のための練習をやっていたんだ”と思っています。
──ジャンルは違えども、通ずる部分があった?
ありますね。今、私のモットーというか、もちろんやっている仕事もアスリートのための仕事なんですけれども、セカンドキャリアで元アスリートが情熱を持って活動できなくなっていくのって、僕は“試合がなくなったから”だと思っているんですよ。
現役アスリートには“試合”があるんですよね。試合で勝った負けたで涙を流したり喜んだりしますが、仕事のシーンで商談が決まって涙を流して喜ぶ人も、決まらなくて泣いて帰って来る人もいないんですよ。でも、“そう(なるように)やればいいのに”と思うようになってから、僕は“毎日試合をやろう!”と決めているんです。
なので、今も(気持ちは)現役アスリート。“毎日試合をやろう!”みたいな。
──そこまでストイックに商談に向けていろいろ準備もしますし。
その方がいいと思うんです。
私たちが派遣しているプロ野球解説者の方に声かける時にも、例えば、松中信彦さんには、「今日、日本一の中継を作ってください!」とか、突然言うんですよね。そうすると「何言ってるんだ、お前」という顔をするんですけど、でも、「いや、こっちの思いはそうですよ」と。「今日はいろんなプロ野球中継があるけれども、この試合は日本一の中継にしましょう」と伝えて、その思いでやれば試合になると思うので、そういう思いを持って活動してほしいなと思っています。
──プロ野球選手で良かったと思うことはありますか?
ビジネスマンになって、いろんなところへ行って、「実は元プロ野球選手だったんだよ」と言っていただけることで、向こうに顔や名前を覚えていただけるんです。これは素晴らしいことです。もちろん今も、それを使い倒して活動している部分もありますし。
何か困ったことがあったら、上司とかにも、「いや~、ちょっと野球選手なのでわかんないですけど」って(笑)。
──(笑)。言いわけとしても使える?
これが最近通用しなくなってきているんですよ(笑)。「お前、わかってるだろう」という…おかしいな(笑)。
──去年は社長に就任されたそうですね。
そうなんです。ソフトバンクホークスの100%子会社の社長として。
──オファーを聞いた時はどう思いましたか?
もともと設立は自分の発案で、事業提案をして、というところからスタートしていますので、もちろんずっと自分がなるつもりでいたというところはあります。
もちろん、球団の役員の方に前社長として居ていただいて、そこに引っ張っていただいた、道筋を作っていただいたという部分はあります。
思い描いていた社長像とはちょっと違って、ハードですけどね(笑)。社長業が楽だというわけではないですけれども、やっぱりベンチャーですし、全てやらなければいけない。
球団のビジネスを回している人たちは本当にすごいので、学ぶことはいっぱいあります。
──この番組では、ゲストの方にCheer Up Songを伺っています。江尻さんの心の支えになっている曲を教えてください。
Nulbarich の「Hometown」です。
今もお伝えした通り、(自分は)ちょっと熱く戦いすぎている感があるな、という時で。今も福岡から仙台まで行ったり来たりしているんですが、“自分の居場所はどこなんだろう?”みたいな。
僕は“本拠地は日本だ”と思っているので、どこにいても、心のよりどころにあるような人々、たくさんの仲間たちがいますし、そういう人たちと一緒に居る時間は、“ああ、ここはホームタウンだな”と思います。
札幌の日本ハムファイターズ、横浜ベイスターズ、福岡ソフトバンクホークス…。北から南まで行けて良かったですね。それぞれの場所で良い点もたくさんありますし。やっぱり北海道は、北の大地。心がとても広い方々に応援していただいて、横浜では“港の男になってやる!”みたいな勢いで頑張って。最後、九州に行くと、僕は東北(出身)ですけれども、西の人たちの明るさにすごく受け入れていただいたなと。こんなに受け入れていただいて嬉しいな、なんて思いながらやってきました。
もちろん出身地、仙台もですね。
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