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2024.03.02

できない理由を探すより、“どうやったらできるか”が大事

今週の「SPORTS BEAT」は、パラサイクリングでパリ・パラリンピック出場を目指している官野一彦選手をゲストにお迎えし、お話を伺っていきました。
官野一彦(かんの かずひこ)選手は1981年、千葉県袖ケ浦市のご出身。
野球の強豪、木更津総合高校にスポーツ推薦で入学し、1年生からレギュラーで活躍をなさいます。
高校卒業後はサーフィンを始めますが、2004年、22歳の時にサーフィン中の事故により頸椎を損傷。一命は取り留めたものの、車いすでの生活を余儀なくされました。
2006年から車いすラグビーを始め、スピーディーな展開と、激しいタックルに魅了され、競技を始めて1年という早さで日本代表に選出、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと2大会連続でパラリンピックへ出場。
リオでは日本車いすラグビー史上初の銅メダルを獲得。
2020年、車いすラグビーからの引退を宣言し、現在はパラサイクリング競技で世界を目指し活動中です。

──野球にサーフィン、車いすラグビー、そして、今度はパラサイクリング。本当にいろんな競技に挑戦されていますね。

そうですね。やっぱり、きっとスポーツが好きなんですね。

──車いすラグビーで、リオ・パラリンピックで見事銅メダルを獲得されて、すごいなと思っていたんですけれども。車いすラグビーを引退された理由は?

リオでメダルを獲った時に銅メダルだったので、金メダルが獲りたかったんですね。“東京で金を獲りたい。でも、今のままじゃちょっと難しいかな”と思って、環境を変えようと思ったんです。それで、(車いすラグビーは)アメリカが本場なので、“アメリカに行っちゃえ!”と思って仕事を辞めてアメリカに行ったり、いろいろ挑戦してきた中で、結果的に、19年の8月に、日本代表を外されたんです。
ここで心が折れてしまったというか、ちょっと続けるのは難しいなと思って引退を決めたんですが、もともと、1つの区切りとして、2020年(の東京パラリンピック)で車いすラグビーは辞めようと決めていたんです。次にやりたいことや、新しいステージに挑戦したいという思いがあったので、そういった意味では、1つの区切りとして東京(パラリンピックで)でこの競技を辞めようと決めていて、プレーしていました。

──その、次にやりたいことの1つが、パラサイクリングだった?

そうですね。自転車競技をやりたかったですね。

──どのようなところがやりたいと思われた部分なんですか?

車いすラグビーは、世界中どこへ行っても体育館の中なんです。室内競技なので、環境が変わらないんですよ。あと、10何年やっているので、どこの国に行っても、どこの試合に行っても、(会うのは)大体みんな知っている人なんです。なので、入ってくる刺激があまり変わらない状況だった。それに対して、新しいことをやるということは、ゼロからのスタートなので、何をやっても経験で、成長なんですよね。
それで、“ずっと同じ競技だけやっていてこのままでいいのかな”と思った時に…それは1つの競技だけをやっている人を馬鹿にしているわけじゃなくて、僕自身はもっともっといろんなことに挑戦していろんなものを吸収していきたいなと思ったんです。そこで、外でやる競技はないかなと思った時に、自転車を見つけて、“これだ!”と思って。それが1つの理由ですね。

──パラサイクリングは、いわゆる寝転んだ状態で、手で漕ぐような競技。

そうですね。一般のロードバイク自転車を、“前と後ろを逆さにする”と言うんでしょうか。普通、自転車は後輪を駆動させるんですが、僕らは前輪を駆動させるので。

──(一般の自転車とは)スピード感も全く違うんじゃないですか?

もう、スピードが出るレベルが違うというか、本当に自動車と同じぐらい出ます。
僕は、今までのマックスで、(時速)72キロまでは出しましたね。でも、僕より速い選手はまだたくさんいるので。
坂道とかだと、本当に、健常者の方の自転車より速いです。

──寝ている姿勢で70キロを超えてくるというと、体感で言ったらもう100キロを超えているぐらいの怖さじゃないですか。

もう、視界がほとんどないですね。

──恐怖心はないんですか?

恐怖でしかないです(笑)。“なんでこんなことをやっているんだろう”って思いながら漕いでるぐらい、速いです。

──実際に危ないことは今まではなかったんですか?

2022年の10月に、僕は崖から落ちました(笑)。
下り坂でカーブを曲がり切れずに、そのまま崖から外に、壁を突き破って飛んでいって、もう駄目だって覚悟したんですけど、木に引っかかって、生きていたんです。本当に“漫画みたい”と思いました(笑)。

──それでトラウマになったりということは?

その瞬間に、“俺、メダルが獲れるな”と思ったんですよ。生かされたなと、やることがまだあるんだなと思って。
だから逆に、もっと一生懸命生きようと。せっかく生かしてもらったんだから、1分1秒を無駄にしないで、もっと一生懸命やろうと思わせてくれた出来事だったので、それはすごく良かったと、ポジティブに捉えています。

──それは練習中のことですか?

レースの前の日の試走の時に起こってしまったんです。

──周りにも走っている選手がたくさんいた?

いなかったんです。単独(での事故)だったので、どうやって帰ろうと思って(笑)。
夕方だったし、人があまりいなかったので、どうしようかなと思ったら、たまたま巡回の車が通って、「あの、すいません」って手を上げたら気づいてくれて、「大丈夫ですか!」って来てくれて、「大丈夫じゃないんで助けてください」ってお願いして(笑)。

──本当に九死に一生どころか、九九死に一生ぐらいの…。

そうですね。本当にラッキーでした。その後、ちゃんと僕、ご飯を食べに行ったので(笑)。
そうしたら(食事の相手に)心配されるかなと思ったら、「よかったな」と。「またお前、人前で話すネタが増えたな」と言われたので、確かにそうだなと思って(笑)。


──パリ・パラリンピックへの道は見えてきていますか?

コロナ禍が明けて海外遠征を始めたのが去年で、“世界ランク0”というか、本当に棒線(ランク外)からだったんですけれど、去年の最後で世界ランキング11位まで上がったので、行けるか行けないかギリギリのところまで来れたのかなと思っています。

──すごいですね。どのようなスポーツも、始めるとあっという間に結果を出すというイメージですけれども。

僕のモットーなんですが、“どうやってやったらできるか”が大事だと思うんです。できない理由を探すより、“どうやってやったらできるんだろう、どうやったら世界一になれるんだろう”と、そこにコミットしていけば、必ず近づいてくる。“結果が出る”かはわからないですけど、でも、必ず近づくことを知っているので。
だから、僕はただ、やった結果がそうなった、というだけなんです。

──理論的に思ったことでも、やっぱりフィジカルの差みたいなものもあったりするじゃないですか。普通は諦めてしまいそうになるんですけれども、それを頑張ろうとされているところがすごいなと。

まだ、自分の限界だと感じる状況になっていないんですよね。だから、まだまだ自分には伸びしろがあると思いますし、毎回毎回タイムは速くなるので、それはやっぱりすごく楽しいなと思いますし、自分の可能性を信じてやっているというところはありますね。

──パリ・パラリンピックの選考基準というのは、どのようなものがあるんですか?

一応、基準としては、ワールドカップなどの大きい大会でメダル圏内に入ってくること、ということが明記されているんですが、実際、本当に厳しいです。でも、去年の今頃とタイムが全く違うので。
最終選考が、5月の最初に、ベルギーとその後すぐイタリアであるんですけれども、自分に期待しているし、自分のサポートをしてくれている会社もありますし、応援してくれる方たちもいる。その方たちが喜んでくれるところを想像したら頑張れるので、その方たちのためにもフルパワーで頑張っていきたいなと思います。

──ぜひ、パリ・パラリンピックに繋げてほしいです。
そして、官野選手は、アスリートとしてだけではなく、実業家としての顔もお持ちですよね。

そうですね。もともと、自分のキャリアを使って、自分だからできることって何だろう?とか、世の中に貢献できること…今まで自分がお世話になってきたので、何か返せることはないかなと思って始めたのがきっかけですね。

──ハンディキャップを持たれた方専用のトレーニングジムを経営されている?

専用というか、誰でも使えるといういうことですね。

──ということは、ハンディキャップを持っていない方でもトレーニングはできる?

もちろん。「誰でも使ってください」というジムを始めてみようかなと思ったんです。
でもどちらかというと、福祉住宅のコンサルだったり、あとは、講演とか企業セミナーのお仕事をいただくことが多いので、それが主かなと思います。
そもそも、自分自身がまだ会社員としての側面もあって、普通に今、お世話になっている会社もあるので、その会社がそれ(会社以外での仕事)を認めてくれているので、すごく感謝していますし、恩返しをしたいなと思っています。

──そうやってスポーツに対する理解のある環境に身を置けるというのは、すごく良いことですよね。

本当に感謝していますし、出会いというか、本当にラッキーだなと思っています。障害者になってしまって、へこんだ時期もあったし、つらい時期もあったけれど、でも、振り返ってみて、今、この瞬間にすごく幸せなんです。それは本当にそういう方たちの支えがあったからこそなので、いろんな人たちに感謝したいなと思っています。

──この番組では毎回ゲストの方にcheer up songを伺っています。官野選手の心の支えになっている曲を教えてください。

グリーン・デイの「マイノリティ」です。

──この曲を知った、好きになったきっかけは?

サーフィンをやっている時に、ちょうどこういうアップテンポの曲が好きだったのもそうなんですけれども、「マイノリティ」って何か面白いなと思ったんです。“少数派”とか、そういう意味じゃないですか。
結果的に障害者という少数派になったんですが、僕みたいな、いろんな物事をわりと前向きに捉える人って、よりマイノリティだなと思っていて(笑)。だから、そういう、何か尖った人間でいたいと思うし、そういう良いところで目立っていきたいなと思っています(笑)。

──確かに、ここまでポジティブに考えられる人っていうのは超少数派なイメージがありますよね。官野選手がいらっしゃると、その場がぱっと明るくなりますよね。

それは嬉しいですね。


今回お話を伺った官野一彦選手のサイン入り色紙を、抽選で1名の方にプレゼントします。
ご希望の方は、番組公式X(旧ツイッター)をフォローして指定の投稿をリポストしてください。当選者には番組スタッフからご連絡を差し上げます。

そして今回お送りしたインタビューのディレクターズカット版を、音声コンテンツアプリ『AuDee』で聴くことができます。
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