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2023.06.10

Jリーグ誕生から30年!激動の日本サッカーを振り返る

今週の「SPORTS BEAT」は、サッカーの元日本代表、そして現在は「わかりやすい解説」としてもおなじみの松木安太郎さんをゲストにお迎えし、お話を伺っていきました。
松木安太郎さんは、1957年生まれ、東京都のご出身。
小学4年生のころ、現在の東京ヴェルディの母体、読売クラブに入団。
16歳でトップチームに昇格され、読売クラブでは1983年のリーグ優勝をはじめ、数々のタイトルを獲得。
日本代表としても、メキシコワールドカップの予選や、アジア大会、ソウルオリンピック予選などに出場。
1990年に現役を引退され、読売クラブのユースチームの監督、トップチームのコーチなどを経て、1993年、Jリーグ開幕元年、35歳でヴェルディ川崎の監督に就任。初代Jリーグチャンピオンに導かれています。



──Jリーグは、今年30周年。あれから30年経ったんですね。松木さんは、Jリーグの初代優勝監督ということですよね。

Jリーグの年間チャンピオンということで、(開幕)1年目と2年目は、勝たせていただきました。
ありがたいですけど、でも、もう30年経っていますから。(現在は)生まれた時から(日本にも)プロリーグがある、ワールドカップには絶対に出場している、という環境で育ったお子さんたちが選手になっていますからね。

──30年前、1993年というのは、サッカーはどのような感じだったんですか?

やっぱり、プロスポーツといえば、野球がまず第一! テレビでも野球の放送が多かった。
スポーツニュースもほとんど野球という時代でしたから、「サッカー」と言われても、なかなか…最初はご存じない方も多かった。
僕の解説もそうですけど、“サッカーを観る方に、いかにサッカーに近づいてもらえるか”ということを思いながらやっていた時代が、ちょうどその頃だったと思います。
そして、プロリーグになったと同時に、それがガラっと変わるわけです。現場サイドも相当大変な思いをされた方が多かったのが、30年前の開幕当初だったと思いますね。
“(サッカーの試合を)観に行く”という部分では、まだまだ知名度がなかった時代ですよね。

──(日本サッカーが)“プロ化される”となった時は、選手たちの間ではどんな反応だったんですか?

ヴェルディ(Jリーグ開幕当時はヴェルディ川崎)の前身である読売クラブはプロ化を目指していましたので、選手のほとんどが契約選手という形で、ほとんど全員が「プロになる」という想いを持ったチームでしたから、我々のチームにとってはすごく嬉しい気持ちでしたね。

──開幕は1993年ですが、実際にプロリーグが立ち上がると聞いたのは何年ぐらい前になるんですか?

僕が引退してすぐ、1990年に、ワールドカップのイタリア大会がありまして、その大会に、実は、当時の日本リーグの各チームのコーチと監督、もしくは指導者にあたる人たちを集めて、1か月間、勉強がてらの視察に行ったんです。ACミランとか、イタリアのビッグチームのスタジアムやクラブハウスに行って、「こんな作りをしているのか」とか、いろんなことを勉強しながらワールドカップを観戦した、ということがあって。あのあたりから、すでに(プロ化に向けて)動きがあったんだと思います。

──そしてJリーグが立ち上がって、社会現象にまでなりましたよね。

それまで社会人チームとして活動していた方たちは、(プロ化する前は)半分(所属している企業で)仕事をしていたわけじゃないですか。でも、僕らはずっと、読売クラブの頃からプロを目指していましたので、サッカーだけをする契約でやっていましたから、考え方や毎日の生活の流れは(Jリーグ発足前と)それほど変わらないんですが、とにかく、周りの反応が変わった。
すごかったですよ。特にヴェルディなんて、練習場で練習をするのに、今、日本代表なんかはクローズする(公開しない)じゃないですか。そんなことが出来るような環境じゃなかったですから、全部、オープンですよ。ファンとかがバンバン来て、“こんなに変わっちゃうのか”と思うくらい。我々もびっくりしました。

──Jリーグの立ち上げの時に、海外から有名な選手がたくさん来日した。よく集まりましたよね。

本当に。世界のプロフェッショナルな選手たち、ベテランの選手たちは、新しいリーグが始まると、“自分の(選手人生の)晩年をそこで”と思うわけですよ。イニエスタ選手も日本のチームに来てくれましたよね。
当時は、監督をやっていると、チーム側にどんどんいろんなFAXが入る。当時はFAXですよ(笑)。FAXで、各国の有名選手のプロフィールが入るんです。「こんな選手はどうですか?」と来るわけです。
だから、“プロリーグが出来るとこんなに世界が動くんだ”ということも実感しましたね。

──またそれで、日本のサッカーのレベルもグッと上がった?

上がったと思います。プロとしての心構えだったり、トレーニングの仕方だったり。プロになれば、もちろんワールドカップにも出場しなくちゃいけない、良い試合をしなければいけない。そういう責任感は、選手もコーチも持っていたと思います。


──1993年にJリーグが出来て、1998年のフランス大会で初めて日本はワールドカップに出場した。松木さんが現役だった頃のワールドカップはどんな存在でしたか?

やっぱり、遠い存在ですよ。みなさんはご存じないかもしれないですが、それまで(1998年のフランス大会以前)はアジアの出場枠は少なかったんです。しかも、東アジアで1チーム、中東アジアで1チームという括りがあったので、そのグループの中で1位にならないと、(ワールドカップ出場枠に)入れない時代だったんです。
みなさんも聞いたことがあると思いますが、「ドーハの悲劇」。1994年のアメリカの大会の予選の最後で、日本は勝てなかった。
僕らの時代では、1986年のメキシコのワールドカップの予選で決勝まで行ったんですけれども、最後で(東アジアの)1チームに入れずに、ワールドカップに行けなかった。
それまで出場国の枠数で相当苦しめられていたんですが、それが、1998年のフランス大会からチーム数が増えて、アジアの枠が増えたおかげで、日本は出場することが出来るようになった。
次(2026年)のワールドカップからはさらに増えて出場枠は48チームになりますから、そういった意味では、“(出場することが目標ではなく)ワールドカップに出場して何を魅せるか”という時代に変わってきたなと。

──JFAは、2050年までにワールドカップの優勝を目指すと言っています。

どうですか(笑)。でも、ヨーロッパの大会があったり、「コパアメリカ」という南米の大会があったり、アジアカップだったり、各大陸に(大会が)ありますけど、ヨーロッパや南米の大陸で行われる大会は、「ワールドカップで勝つより大変だ」と言われているんですよね。

──ワールドカップは予選があって出られない国もあるけれど、もっと強い国もたくさんあるということですよね。

ある。(強豪国でも)アンラッキーで出られない国もある。ところが、アジアは枠があるから、アジアのチームもワールドカップに入ってくる。アジアとかアフリカやオセアニアのチームは、まだまだヨーロッパや南米などの国に比べると力が落ちますから、そういうチームがワールドカップに入ってくるので、「ワールドカップの方が勝てるチャンスがある」と、ヨーロッパや南米のチームは言っているんです。
でも、日本もそういう時代になってきたじゃないですか。(昨年のワールドカップで強豪国を破りグループステージを突破したように)アジアの国でも勝てるチャンスが出てきている。
だからやっぱり、世の中が変わってきていますよね。

──この番組では、ゲストの方にCheer Up Songを伺っています。松木安太郎さんの心の支えになっている曲を教えて下さい。

私は、けっこう音楽を聴くんです。いろんな方々の音楽を聴くんですが、この方の音楽は昔から聴いておりまして。南佳孝さんの「プールサイド」という曲です。
これはもう、これからの時期には最高でね。キツい練習の後に、どんな環境の中でも、これを聴くと(その場所が)プールサイドになるという(笑)。

──便利ですね(笑)。夏の炎天下のキツい練習がある時でも、この曲を聴くと…。

最高のプールサイドになります!


来週も引き続き、松木安太郎さんにお話を伺っていきます。お楽しみに!



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そして今回お送りしたインタビューのディレクターズカット版を、音声コンテンツアプリ『AuDee』で聴くことができます。
放送できなかったトークが盛りだくさん! ぜひお聴きください!

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