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15.03.14
ノルディック複合団体日本代表

ノルディック複合団体日本代表は、1928年のサンモリッツオリンピックから選手を参加させていたが、長年、クロスカントリーが強いヨーロッパ勢に苦杯をなめさせられていた。
どうすれば勝てるのか?
その答えを、ノルディック複合では、他の国がまだ始めていなかったV字ジャンプ転向への、いち早い取り組みに見出した。

V字ジャンプ転向で、いち早く結果を出し始めたのが、荻原健司(おぎわら けんじ)だった。
当時、まだ世界選手権にも出場したことがなかった荻原は、オリンピックの1ヶ月半前に、初めてV字に挑戦し、その後のワールドカップで、徐々に完成度を高めていった。

迎えた、1992年アルベールビルオリンピック。
当時の複合団体のジャンプは、3本飛んで好成績の2本が採用される形式。
クロスカントリーは、個人より5?短い、10?を走る。
日本は、不調のエース阿部を外し、クラシカルスタイルながら、個人のジャンプが2位だった三ケ田礼一(みかた れいいち)と、クロスカントリーが強い河野孝典(こうの たかのり)、そして荻原健司というオーダーになった。
 
迎えた本番。初日のジャンプで、日本勢は完璧に近い活躍でトップに立った。
最も強敵と見られていた、クロスカントリー王国のノルウェーには、6分16秒の大差をつけるスタート。

翌日の後半戦、1番手は、チームの中で最もクロスカントリーを苦手とする三ケ田だった。
「この走り次第で結果は大きく変わる」とコーチ陣は考えていた。

予想以上の頑張りを見せた三ケ田は、2位オーストリアに2分1秒差で河野につないだ。ここで、日本の金メダル獲得の可能性は高まった。
河野も、2位に1分55秒差で、最終走者の荻原につなぐ。
2位にはノルウェーが迫る。
荻原は、ノルウェーの追撃を退け、観客席から手渡された日の丸を振りながらゴールした。

表彰台で、シャンパンを振りまいて喜びを爆発させた3人。
それは、その後の、日本ノルディック複合黄金時代の、幕開けの合図だった。