Legend Story
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15.02.14
斉藤仁

2015年1月20日、日本柔道界の威信を守った男が亡くなった。
斉藤仁。

高校時代から頭角を顕(あらわ)し、1983年世界選手権では、無差別級で初優勝を果たし、世界の頂点に立った。
さらに、1984年ロサンゼルスオリンピックでは95キロ級で金メダルを獲得したが、世間の注目は、無差別級で肉離れした右足を引きずりながら、決勝でエジプトの巨漢モハメド・ラシュワン破って優勝した山下に集中した。
天才・山下泰裕(やました やすひろ)の陰に隠れ続けた柔道人生。

1985年、山下の引退後、日本のエースとして世界に君臨するはずだったが、同年の世界選手権95キロ級決勝で、韓国の趙容徹(チョ・ヨンチョル)の反則技で左肘を脱臼し棄権負け。
その後も競技続行を不安視されるほどのケガに苦しんだ。

1988年、4月の全日本選手権を初制覇し臨んだソウルオリンピックは、彼にとって自身の存在感を世界に示すラストチャンスの大会でもあった。
だが、柔道の神は、そんな斉藤にまたしても厳しい試練を与えた。

軸足である右足を痛めて技が出ない。練習すら満足に出来ないような状態。
それに加え、この大会で日本男子柔道チームは、6階級を終え銅メダル3個を獲得していたが、金メダルは未だゼロ。
柔道が正式種目となった1964年東京オリンピック以来、実施されなかったメキシコシティオリンピックを除いて、全ての大会で金メダルを獲得し続け、4年前のロサンゼルス大会でも4個の金メダルを獲得していた日本は、95キロ超級が行われる競技最終日を迎えて、最大の危機に陥っていた。
 
日本柔道の威信を守らなければいけないという重圧との戦い。
限界まで来ている自身の体との戦い。
軸足の右足の痛みで、得意の内股さえかけられない。
決勝、東ドイツのヘンリー・ストールを相手に、足を引きづりながらも前に前にと攻め続けた。
ただひたすら、日本の威信を守るために。

根負けしたストールに指導が与えられ、判定勝ち。
斎藤は表彰台のてっぺんに立ち、声高らかに君が代を歌った。
山下も成し遂げられなかった、2大会連続の金メダルを獲得。
山下の陰に隠れてきた男が、山下を超えた瞬間だった。

日本のお家芸である柔道の威信を守るという重圧から解き放たれ、堰を切ったように流れ出る涙を流しながら、斉藤は言った。

「ロスの金メダルは自分の金だったけど、ソウルの金は、みんなのものですから」