Legend Story
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14.09.13
朝原宣治

「アッ、終わった」という思いが、真っ先に頭の中に浮かんだ。
そして「気持ちよかったな」という思いも…。

2007年9月1日の世界陸上大阪大会・男子400mリレー。
5位という結果に一度は落胆しかけた朝原宣治だが、日本記録の38秒03というタイムをみて、「しかたないな」と思った。
4位までが37秒台のハイレベルな戦い。
やり切ったという思いに包まれた。

1993年10月に100mで10秒19の日本記録を出して以来、現・100m日本記録保持者の伊東浩司とともに日本男子短距離を牽引してきた朝原。
大阪で開催された世界陸上を彼は、最後の競技会だと決めていた。

2004年アテネオリンピック400mリレーで過去最高の4位になった時、彼はこれが自分の最後の五輪だと思った。もう32歳。
後は流れに任せて消えていけばいいと。
だが翌2005年世界選手権に出場した後、自分がこれまで日本での世界大会を経験したことがないのを寂しく感じた。
「地元の日本で、大声援を受けて走るのを経験してから辞めてもいいのではないか」と。

そのため2006年は試合出場を辞めて体力を温存し、満を持して世界陸上大阪大会へ臨んだのだ。
 
その舞台で100mは準決勝まで進出し、リレーでも自分の体が会場の大歓声や空間と一体化して
「何か訳がわからない感じで前に進んでゴールした」ような感覚を経験できた。
だからメダルはなくても満足だった。
 
だが「朝原さんにメダルを!」と誓って走った末続慎吾や高平慎士(しんじ)、塚原直貴は違った。
「獲り損ねたメダルは、来年一緒に北京オリンピックで獲る。だから朝原さんの競技続行を説得する」と口にしていた。

その思いを受け入れて引退を1年伸ばした朝原。
北京オリンピックの400mリレー決勝は不安だらけだった。
前日全力疾走をした自分に、どのくらいのエネルギーが残っているのかと…。

スタート前にそれぞれの位置から、高校生のように手を振り合ってのレース。
朝原は号砲が鳴って1走の塚原がスタートを切るのを確認した後は、怖さでレースを見られなかった。
高平の足が、自分が走り出すタイミングを示す白いテープを超える瞬間だけを待った。

バトンを握った瞬間、内側のトリニダードトバゴの赤いユニフォームが自分の前に出たのは分かった。その後は無我夢中の走り。

ゴール後しばらくして電光掲示板にジャパンの文字が3番目に掲示されたのを確認した瞬間、朝原の気持は一気に開放され、手にしていたバトンを空高く放り投げていた。