Athelete News
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20.07.04
ノックは選手との会話
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今週の「Athlete News」は、元ソフトボール日本代表監督の宇津木妙子さんをゲストにお迎えしました。

宇津木妙子さんは、1953年生まれ、埼玉県出身。
中学からソフトボールをはじめ、高校卒業後、実業団入りし、主に三塁手として活躍されました。
74年には、最年少で全日本代表として世界選手権に出場し、準優勝に貢献。
現役引退後は、日立高崎の監督に就任し、日本リーグで3度の優勝を経験。
日本代表の監督としては、シドニーオリンピックで銀メダル、アテネオリンピックで銅メダルを獲得されました。
現在は、ビックカメラ高崎のシニアアドバイザーや、日本ソフトボール協会副会長などを務め、ソフトボールの普及活動に取り組まれています。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今回はお電話をつないでお話を伺っていきました。



──宇津木さんと言えば、「速射砲ノック」(高速で連続で打っていくノック)で有名ですが、もともとノックはお上手だったんですか?

特に(ノックについて)意識はしてなかったんですけど、ただ、女性を指導するにあたって、あまり“考える時間”をおきたくなかったんですね。自分が現役の時もそうだったんですが、やっぱり“間”がありすぎると余分なことを考えちゃうんです。だから、とにかく選手たちに考えさせないように、常に緊張を持ちながら、ボールを待つ時間はなるべく少なくするように…という感じで(ノックが)速くなったんですよ。

私は、“ノックは会話だ”と思ってるんです。打ってる方も疲れるし受ける選手も疲れますけど、いま選手がどういう状況で(ノックを)受けているかとか、元気なのかとか、体調も見れますし。“ノックって会話だな”って思いながら、ずっとやってますね。

──日々、選手の体調であったり考えていることなども、ノックを通じてわかることがある?

わかることがありますね。“女性だからこそわかる部分”って、いっぱいあるじゃないですか。だから、選手たちが可哀想と言えば、可哀想かもしれない(笑)。

──「限界まで追い込むぞ」っていう(笑)。

今はそういう時代じゃないのかもしれないですけど、でもやっぱり、上手くなりたい選手は向かってくる。“妥協”って、誰しもがしてしまうじゃないですか。その上で、どう選手と向き合ってやれるかということがすごく大事なのかなって。自分もそうでしたしね。

──あと、そういう“練習量”って、裏切らないんですよね。

そうですね。やっぱり、1つ1つのワンプレー、ワンプレーが必ず出ますからね。

──そして、ソフトボールは、北京オリンピック以来12年ぶりにオリンピックの正式種目に追加されました。ソフトボール界は盛り上がってるんじゃないですか?

そうですね。ソフトボール界としては、2大会(オリンピックに)出れなかった。その間に強化もしっかりやって、世界選手権で優勝もして。だからこの東京オリンピックに対しては、みんなの、私たちの想いもありますし、北京のあの上野(由岐子)の413球が、みなさんの心の中にもあると思うんです。もう1度北京を思い出しながら盛り上げて、国内外にソフトボールを広めたいなって、そんな想いがありますね。

──やっぱり“オリンピック”と言うと、また1つ国民の注目度が上がりますもんね。

私も代表監督になって2回参加しながらも、やっぱり、“オリンピックの重圧”ってすごいものを感じましたね。オリンピックを経験できる選手も一握りですし、“国の代表である”という自覚と責任があるし、ある程度の覚悟も必要なんじゃないかなと。これは監督だけじゃなくて選手にも言えることですし、応援するみんなも一緒になってやってくれないと、なかなか期待には応えられないんじゃないかなとか。いろんなことを感じますよね。

──宇津木さんと言えば、ソフトボール界の名将。実はそもそも、指導者になるつもりがなかったとか。

そうですね。私は現役の時に、実業団のユニチカにお世話になって。(現役を引退して)帰ってきてから、ちょうどジュニアの世界選手権があったんですよ。やっぱり女性では初めてだったんですけど、そこでジュニア日本代表のコーチに選ばれて。その時にチーム強化をしたのが、指導者としてのスタートだったんです。
その頃、高校の試合を観たりリーグの試合を観たりしていたんですが、その時にたまたま日立高崎の方からお話をいただいて、指導者になった…といういきさつです。だから、最初から(指導者を)やるつもりではなかったんです。特に当時は女性指導者がいなかったので、“どうなのかな”っていうのはありましたね。

──「初の女性監督」ということで、大変なこともありましたか?

まあ、当時は大変でしたね。今もまだまだ、どこかでそういう偏見の目はあるとは思うんですけど。
その時の(日立高崎の)工場長が、“企業スポーツの役割として、企業のみんなが1つになって応援できるような、そんなチームを…”と。その理念を聞いた時に、“ああ、これだったら私が現役の時にいろんな勉強したことが活かせるな”って。それで決断して、監督になりました。

──選手たちとコミュニケーション取るのに、“女性(同性)ならではのメリット”もあったんじゃないでしょうか?

すごくありました。練習が終わってから、選手と一緒になって大きなお風呂に入ってね。グラウンドではみなさん“鬼”でしたけど、お風呂に入ったらもう、一緒。同性としてのコミュニケーションを取りながら、今日はこうだったね、ああだったね、と話したり、歌を歌ったり。“ミーティングがお風呂場だった”って感じですよね。

──そういう、オンとオフがしっかりしていらっしゃったからこそ、選手たちも厳しい指導に耐えられるという部分もあったんでしょうか。

そうですね。私はあまり、グラウンドでは笑顔にならなかったんですよね。だから、たまに打ち上げの時にいろんな衣装を買ってきてはそれを着ながら歌を歌ったり(笑)。それでみんなが盛り上がったり…。そんな風にして、(オフでは)選手の目線というか、同じレベルの中でやってましたね。

──そして、日本代表を率いてシドニーで銀、アテネで銅と、それぞれのオリンピックはどんな思い出がありますか?

アトランタの時にコーチとしていろんな経験をして、“日本の良さは何か”ということをまず考えた時に、「守り勝ち」だなと。守れば絶対に、なんとか1点取れば勝てる。シドニーではそのアトランタの経験を活かしました。
だから、今の“ノック”もそうなんですよ。ノックしてノックして守りを固めて、ピッチャーの癖もみんなにわからせた上で、“このピッチャーだとどういう打球がどこに飛んでいくのか”とか、そういう練習を徹底的にしたチームでした。だから、シドニー(日本代表)はもう、最高のチームですね。今でも、“シドニーの時の選手はよく頑張ってくれたな”と思います。ほんと、めちゃくちゃ練習しましたね。半端じゃなかったです。

──宇津木さんが「半端じゃない」って言うと、相当、半端じゃないんでしょうね(笑)。

シドニーの時の選手たちには、いまだに言われますよ。「もう、あの練習は何億出されてもやりません」って(笑)。「もうできないだろ」って言うんですけど(笑)。シドニーではそれぐらい、私も選手も、“ソフトボールをメジャーにしたい”という想いがあったと思うんですよ。選手たちは、その想いの中で、1人1人が責任を持ってよくやってくれたなって、本当に思いますね。

──この番組では、毎回ゲストの方にcheer Up Songを伺っています。宇津木さんの心の支えになっている曲を教えてください。

加山雄三さんの「海 その愛」です。加山さんのカセットテープで、メドレーがあるじゃないですか。あれをグラウンドの移動の時にずっとかけてたんです。海の歌が多いんですけど、曲がすごくいいんですよ。「光進丸」なんかもそうですし、「僕の妹に」もそう。なんかこう、なだらかな、穏やかな…。それが、試合の前には落ち着いたんですね。だからずっと、三十数年間、聴いてましたね。遠征の時にはカセットが何度か壊れちゃったり。でも、いつの間にか選手が(加山雄三さんの曲に)飽きちゃって(笑)。

──選手のみなさんにも聴かせてたんですか(笑)。

そうなんですよ。だから選手は全部覚えてます(笑)。それで顰蹙を買って、最後はみんなウォークマンで自分の曲を聴いてたから、“これは失礼なのかな”と思って(笑)。

──みんな、それぞれの曲を聴くようになったわけですね(笑)。加山さんの曲は、“おおらか”というか、“大きな”歌が多いので、確かに、試合前には勇気づけられますね。

そうですね。壮大な海を渡って…じゃないですけど、そんな思いで“頂点を目指そう”という感じはありました。音楽を聴いていて、すごく落ち着きましたね。


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