ON AIR REPORT オンエアレポート

4月10日 ショパン全212曲完全奏破に向けて

11/04/11


来月5月3日の『ショパン・ピアノソロ全212曲完全奏破コンサート』をチャリティーコンサートとして行うことに決めたことは先週もお知らせしましたが、このコンサートの収益金は、JFNヒューマンコンシャス募金として、一部を災害復興支援のため、日本赤十字社を通し被災地にお送りします。
皆さまにもぜひ足をお運びいただきご協力頂ければと思います。

今回は来月のチャリティーコンサートに向けて、ショパンの名曲をいくつかご紹介していきました。

《スケルツォ 第1番》
ショパンが祖国ポーランドを離れた20歳の時の頃から作曲したのではないかと言われています。
当時ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアに分割統治され、落ち着かない情勢の中、思う存分音楽に没頭できる環境を求めて祖国を後にしたショパン。まずはウィーンへと向かいます。1年前にウィーンを訪れた際は大人気のショパンでしたが、二度目のウィーンは様変わりしていました。というのも、その年ワルシャワを占拠していたロシア人への蜂起が起こったため、ウィーン市民のポーランド人に対する感情は急激に悪化し、ポーランド人であるショパンは演奏会すら開くことができなくなったのです。これはおそらくショパンにとっての最初の苦難、試練だったのではないでしょうか。親友のティトゥスも革命軍に参加するために帰ってしまい一人孤独に過ごしたショパン・・・。その時の自分の気持ちを吐き出し、激情のおもむくままに創作したのが本作、という気がします。その後ショパンはウィーンを去り、父親の祖国パリへと向かいます。そして新天地で徐々に活躍の場を広げていったのです。

<別れのワルツ>
25歳の夏、ショパンはカールスバードで両親と久々の再会を果たしますが、その帰り、家族ぐるみで付き合いのあったヴォジンスキ家が滞在していたドレスデンに立ち寄り、16歳の美しく才能あふれる女性へと成長したマリアと再会します。マリアの美しさに一目で心を奪われてしまったショパン。この曲はマリアへ贈られています。二人は婚約するまで発展したものの、結局は別れる運命となってしまいます。そのことから後にこの曲は<別れのワルツ>と呼ばれるようになりました。

《子守歌》
再起不能と言われるくらい体調を崩し、ジョルジュ・サンドとの関係も悪化・・・そんな時期に書かれた作品ですが、そういったことをみじんも感じさせない美しい作品となっています。一説によるとサンドと共通の友人の子どもを一時預かることになり、その幼子をショパンは大変可愛がっていたことが知られています。その経験が契機となり作曲された曲ではないかと言われています。

♪M1 ショパン《スケルツォ第1番》
♪M2 ショパン《2つのワルツop.69》より第1曲。通称<別れのワルツ>
♪M3 ショパン《子守歌》