モーツアルトの「ピアノ協奏曲第20番」初演の日にちなんで
18/02/12
今回もお聴きいただきありがとうございます!
今から233年前の2月11日は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番が初演された日です。
今回は、この「第20番」を中心に、モーツァルトの生涯と代表的なピアノ協奏曲に注目しました。
<プレイリスト>
M1 モーツァルト 《ピアノ協奏曲第20番 ニ短調》K.466より第2楽章 /ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ&指揮)、フィルハーモニー管弦楽団
M2 モーツァルト 《ピアノ協奏曲第21番 K.467》 より第3楽章 / 内田光子(ピアノ)、イギリス室内管弦楽団、ジェフリー・テイト(指揮)
M3 モーツァルト 《ピアノ協奏曲 第27番 K.595》 より第1楽章 /ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ&指揮)、フィルハーモニー管弦楽団
M1「ピアノ協奏曲第20番」は、1785年(29歳)作曲。モーツァルト(1756-1791)の作曲家としての全盛期にあたります。
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調は、モーツァルトの数あるピアノ協奏曲の中でも高い人気を誇っている一曲で、彼のピアノ協奏曲の中で2曲しかない短調作品のひとつ(もうひとつは第24番ハ短調)であることも注目されます。
第一楽章と第三楽章は情熱的なニ短調、そして、第ニ楽章は長調ですが途中、短調でドラマチックにもりあがります。
父レオポルトによれば、多忙な日々を送っていたモーツァルトはこの作品を前日になってようやく完成させ、終楽章を通して弾いてみる余裕もなかったものの、演奏会は大成功だったとのこと。演奏会当日にウィーンを訪れた父レオポルト・モーツァルトは、「この協奏曲は堂々としていて、オーケストラも立派に演奏してのけた」とモーツァルトの姉ナンネルに報告しています。
モーツァルトといえば、ハイドン、ベートーヴェンと並び、ウィーン古典派・三大巨匠の一人として活躍しました。幼い頃より神童として知られ、35年という短い人生で、未完成の断片も含めるとピアノ曲から交響曲、オペラまで幅広いジャンルに700曲ほどの作品を遺しています。
また楽器の歴史でもチェンバロからピアノへと移行する時期で、モーツアルトも会場によってさまざまなタイプの鍵盤楽器を演奏していました。
<ウィーンでの全盛期>モーツアルトの人生は、生まれ育ったザルツブルグ時代とウィーン時代に分けられます。
1881年(25歳)のウィーン定住以降、モーツアルトは教会や宮廷に属することなく、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていました。自ら主催する演奏会用にピアノ協奏曲の作曲も相次いでいます。売れっ子になったモーツァルトのスケジュールは過密で、午前中は弟子たちのレッスン、夜はほぼ毎晩、サロンで演奏していました。いつ作曲していたのでしょう・・
<人気に陰りがさした晩年、そして早すぎる死・・・>オペラ《フィガロの結婚》《魔笛》など成功を収めたものの、晩年は人気に陰りがさし、借金がかさむなど、生活も苦しくなっていった。社会的にも、フランス革命、皇帝ヨーゼフ2世の死去など、不安定な世相はモーツァルトにも影響を及ぼしました。モーツァルトの病気とその突然の死について、その真相は今日なお解明されておらず、近年になっても毎年のように新説が発表されています。
●「ピアノ協奏曲第20番」のわずか1か月後に書かれた「ピアノ協奏曲第21番」は、優雅で軽やかなモーツアルトのウィーン時代を代表する曲。さらに最後のピアノ協奏曲、「ピアノ協奏曲第27番」は、亡くなる年1791年に完成、3月4日の初演の舞台がモーツアルトの最後のステージとなりました。晩年を思わせる暗さは感じられないものの、ややゆったりと優雅になり、若いころの装飾がたくさんあるスタイルからシンプルな中に味わいがあり、モーツアルトの成長を感じる作品です。と横山さん。
来週は、「冥王星の日」にちなんで、天体をテーマにお送りします!お楽しみに♪