私は宮城県に住んでいますが、山側の方に住んでいたため、
見た目や周りは、震災前とあまり変わらない日常を過ごしています。
変わったことと言えば原発事故が起きて、
県南の方よりはいくらかはましですが汚染され、
親からの食料制限や、遊んではいけない場所ができたことです。
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テレビや新聞では、放射線なんか気にするほど怖くないよーってニュアンスで報道しているので、周りの友だちは全くそういうのは気にしてないようなのですが、私の親は放射線についての文献や資料を山のように読みあさり、私たちにどんなに怖いものなのかを、何度も教えました。
日本の線量を測る機械も、他の国の機械を使うといきなり値が変わると聞いて、ちゃんとした機械で秋田の山に囲まれた放射線量0の場所を見つけ、そこで長い休みの日は過ごしています。
こんなことがあって、私の住んでいる地域は山も森も川もあり、自然に囲まれた街ですごく住みやすい素晴らしいところだと初めて実感したのです。
そして、そんな素敵なところを汚した原発が憎いです。
憎んだって仕方がありませんし、偉い人たちは私たちを守るどころか騙しているので、自分の身は自分で守るしかないと、私は自分の身を守りつつ、いつもと見た目は変わらない日常を過ごしています。
そんな中、原発の廃棄物を宮城県に置くかもしれないという話を聞いたのです。
これ以上私の育ってきた場所が汚されると思うと涙が止まりません。
東北にはおかないでください。
原子力発電所がそんなに安全で危険性が低いものなら、東北におかないでください。
元々福島原発の電気は東京のものです。
汚いものを私たちに押しつけないでください。
これ以上私たちの場所を汚さないでください。
写真は 学校から見える、私の街の景色です。
僕にとってあの日は、ありきたりな言葉ではありますが、ホントに地獄でした。
家も失い、親も失い、なにもかも失った僕に残されたものは、自分の命と兄弟だけです。
人間は、失ってから気づくとよく言いますが、まさにその通りです。
ホントに大切だったからこそ、悲しかったし、悔しかったし、
後悔がとてつもなくおおきくなったんだと思います。
失ってから、もっとこうしてあげればよかったとか、今でも毎日そう思っています。
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ここで一つ言わせてください。
今隣にいてくれる家族や友達、恋人にありがとうをいっぱい伝えてください。
どのありがとうが最後になってもいいように、あとで後悔しないように、たくさん感謝してください。
まわりにいてくれる人がいることはあたりまえじゃないことをもっと自覚してください。
それがすべてを無くした自分の体験を踏まえた上でみなさんに言えることです。
もう誰も僕のように
震災なんかで大切な人を失うことがありませんように。
写真は震災後必死に探して見つけた、自分の父親の車です。
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災は、やっとひとつの大きな区切りを打てると思います。
生まれも育ちも宮城県石巻市です。私の家は、津波で跡形もなく流されました。
地盤沈下とその後の土地計画により、もうそこには住むことができないそうです。
街には新しい家が続々と建ち始めていますが、家族は今でも仮設住宅に暮らしています。
仮設に入居できたのは、震災から半年が経った秋頃でした。
家を建てるには土地とお金が必要です。
我が家の例として、実家のあった土地を市が買い、そのお金で新しく家を建てるという流れになります。
新たに家を建てる土地は市の集団移転先によって決まります。家を建てるまで、遠く長い道のりです。
私は東京で一人暮らし。家族は地元で仮設暮らし。家族と離れ、上京する時はとても心が痛みました。
それでも、家族は温かく私を見送ってくれて、実家に帰った時は笑顔で迎えてくれます。
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上京してもう少しで1年が経ちますが、
くだらない他愛もない話をして笑ってます。震災前と何ら変わりない日常です。
東京で生活しているとまるで震災なんてなかったかのように毎日が過ぎていきます。
ただ、時折震災の瞬間が鮮明にフラッシュバックします。
津波の夢を見た時は怖くて1日中動けませんでした。瓦礫とヘドロだらけの実家の夢も見ました。
せめて夢の中でだけでも震災前と変わらない風景であってほしかったのに。
また、あの時のような地震が起こったら、と考えてしまって苦しくなることもあります。
正直、この記事を書くことを悩みました。
というのも、“被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だったからです。
そんな理由から自分の出身をちゃんと言えないこともありました。
今でも人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうこともあります。
ですが、東京と地元を何度も行き来しているうちに、
両方の地で生活しているうちに強く思い始めたことがあります。
憂いたり、悲しむことも、大変なこともあるけれど、
それでもこの街には他の地で過ごす誰とも変わらない日常がちゃんと流れている。
悲しみが完全に癒えることはないかもしれないけれど、いつまでもずっと悲しんでいる訳じゃない。
“可哀想”だとはもうあんまり思ってほしくはありません。
むしろ、遊びに来てほしいと思ってます。新鮮な海の幸や美味しいものがたくさんあります。
店舗が大きな被害を受けてしまったけれど頑張って店を復活させた人や、
街を活気付けようと奮闘するボランティアの人がいます。音楽イベントやライブも盛んです。
私の実家も、震災前は飲食店をやっていました。
今は休業中ですが、ありがたいことに店の復活を待ち望んでいる人がいます。
新しく家が建ったら再開する予定です。
石巻へは、仙台から(車で)約1時間半という行くのには大変な距離ですが、
どうか遊びに来てもらいたいです。
大きく壊れて、そこから少しずつ変わっていく街の様子を見てもらいたいです。
先日、土地の移転先が決まったと家族から連絡がありました。
詳しい区画や買い取られる土地の金額、家が建つ時期はまだわかりません。
もしかすると、家が建つのは来年以降になるかもしれません。それでも、私にとっては大きな一歩でした。
父が「この仮設を出る時、家族写真を撮ろう」と言いました。
実家と呼ぶこの仮設も、いずれは出ることになります。そして取り壊されてなくなってしまうでしょう。
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てると思います。
私は中学校の卒業式の日に震災にあいました。
浪江町にあった自宅は倒壊寸前。
高台から見た津波は自宅の一歩手前で止まり、翌日には原子力発電所が危ないと言われて着のみ着のまま避難しました。
あの日のことは約3年経った今でも鮮明に覚えています。
高校は合格発表前に震災が起きたため全員合格という形になり、県内四ヶ所に他の高校教室を間借りして高校生活がスタートしました。
同級生は4分の1に減少し、入学式はありませんでした。
精神的に追い詰められた日々が1年間続きました。
しかし多くの方々の支援により高校2年生、3年生は生徒会長を務めるなど
沢山のことに挑戦し、充実した日々を過ごすことができました。
先日、福島県の南相馬市に私たち家族の新居が建ちました。
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それを見に行く際、警戒区域内にある自宅へ1年ぶりに立ち寄りました。
警戒区域内はあの震災の日から何も変わっていませんでした。
半壊や倒壊したままの住宅。撤去されることなく残された瓦礫。
自宅に着いた時、その現実を目の前にして声を上げて泣いてしまいました。
とても『復興している』とは言えませんでした。警戒区域内は置いてきぼりです。
でも全く未来が見えていないわけではありません。
私は大学進学のため関東地方へ一人暮らしとなりますが、
4月から新居で3年ぶりに家族が一つ屋根の下で暮らすことができます。
私自身は将来、地元福島県で高校教諭になりたいと思っています。
福島県は現在、原発事故による放射能の不安から多くの人たちが県外へ避難しているため、
子供が減少しています。しかし、福島県に残っている子供たちも沢山います。
私はその子たちを支え、共に福島県で頑張りたいと考えています。
原発廃炉そして収束という未来、警戒区域内の復興という未来は、正直はっきりとは見えません。
しかし、私は自分自身についての未来は見えています。
まずはその『未来』を目標に、これからも頑張っていきます。
僕が通っている学校は、海の近くにある学校で、震災当時、体育館、一階の教室、職員室など一部濁流してしまい、本校での授業は行うことが出来ませんでした。
今は、新しく一階の職員室と教室が使えるようになり、本校での授業を、無事再開することが出来ました。
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体育館は、徐々に完成しますが、まだ一部、直していない箇所があるので、まだ体育館は使えません。
後、卒業式も、本校での体育館で行う事が出来ません。
卒業式は、市内の公民館で行います。
1つ思ったのが、「本校での体育館で卒業式行いたかった・・・。」という気持ちでした。
学校以外にも、震災当時、道路が寸断した箇所もあり、なんとも言えない状況でした。
けれども今は、無事道路が修復し、通れることに一安心だと思いました。
原発事故の被害も遭いました。
更に、今年の2月には、原発の水漏れタンクの被害の情報が相次ぎました。
今後も原発関連の事に対しては、全く不透明だと思いますが、どうにか一刻も早く、元通りの生活になってほしいなぁと思います。
今の東北は、徐々に復旧作業が続いており、東北の活性化を目指していると思います。
どうか東北6県の事を見捨てないで欲しいと思います。
あと、東北地方に遊んでくれると有り難いです。
福島県に住む受験生です。
僕が住む郡山市では毎日除染作業が行われて「いません」。
正直あの2011年3月11日からまったくといっていいほど変わっていません。
ある政治家の人は言いました。「すぐに原発を廃止して東北を元通り以上にします。」
別の政治家の人は言いました。「危険性がない原発は稼働させます。」
僕たち子供の未来はどうなるんですか?
僕たちは今後どうなるんですか?
いまの東北を見てください。
「あの忌まわしき過去」ではなく「今起こっている問題」として。
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「
3月11日。私はあの時、痛みよりも優しさをすごく感じた。
私の家族は父の職場の指示があり、千葉にある祖父母の家にバスで向かうことになった。
宮城を出発して山形で一泊したときのこと。
深夜の到着にも関わらず、旅館の人が温かく迎えてくれた。
しかも、個々の部屋に入った瞬間、目に見えたものは、たくさんのおにぎり。
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女将さんの一言は今でも忘れられない。
「おにぎりしか用意できませんが、 少しでも幸せになれますように。ゆっくりしていってくださいね」。
なんて優しいんだろうと思った。
心が本当にほっとした。
私は本当に幸福者。それからもたくさんの優しさに出会えた。
あのとき、私たちを受け入れてくれた旅館の方々へ、ありがとう。
これからは私が優しさを配っていける人になる。
いつか東北が、東北人が優しさに包まれるように。
今、私には夢がある。
私は小さい頃から宇宙が大好きだった。
そんな大好きな宇宙をたくさんの人に伝えていきたい。
そう思い、まず、宇宙を学ぶことにした。
私が第一志望に選んだのは、山形大学。
三年前、私たちを助けてくれた方々のいる、あの優しさ溢れる山形でぜひ学びたい。
そしていつかその方々に会ってお礼を言いたいと思っている。
優しさの連鎖があってこそ、復興は進んでいくと私は信じている。
まだまだ復興は遠いかもしれないけれど、幸せの輪が広がるように、精一杯に生きていきたい。
私の周りでは、家をなくした人、友達をなくした人、親をなくした人などがたくさんいます。私も、大切な友達と優しくしてくれたその子のお母さんを亡くしました。
私の中学校はとても山の上にあり、いつも音楽室からは海が見えていましたが、その海がこんなに怖いと思ったのは震災の時が初めてでした。
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高校では逆に海に近いところに通っているので、津波の被害にあった友達も沢山います。
その中で今、私達は震災を乗り越えて自分達の将来に向けて歩いています。
とても悲しくて、辛い思い出だけど、今は頑張って、頑張って頑張って、頑張って頑張って、幸せになりたいです。
この写真は、先日の大雪が降った時に撮影したもので、何も変わらない普通の町の景色です。
しかし、震災直後、この川には、海から来た被災物が散乱していて、
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見るに耐えなかったのを覚えています。
今では被災物も片付き、白鳥やサギが戻ってきました。
高校卒業後、私は専門学校へ進学します。
学校で勉強するだけではなく、学校外で震災や地元に関するボランティア、企画、交流会などに積極的に参加し、震災に対する思いを共有して忘れないようにしたいと思っています。
ここ以外にまだまだ被災物が片付いてない所はあります。
形だけ作る復興は、お金があればできますが、私たち若者の役割はお金では出来ないことを創ることだと思っています。
今出来ることを精一杯に。
あの絶望的な状況下からめげずに立ち上がれたのは奇跡だと思っています。
この写真のように前に歩き始めた人はたくさんいるのだから、たくさん奇跡の軌跡を残していきましょう。
2011年3月11日は、私の15歳の誕生日でした。
震災が起こる20分くらい前にお母さんと「今日は外食でもしようか」なんて笑顔で話をしていました。一生忘れられない誕生日です。
この未来新聞の発行日が18歳の誕生日です。
あの日のあの時間、潜ったテーブルの下で見た物、聞いた音は3年経った今でも鮮明に覚えています。本当に怖かった。思い出すだけで胸が痛くなるし、涙が出そうになります。
今だに余震が怖いし、震災直後よりは減ったけれど、
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地震が起こる夢をよく見て、そのたびにあの日のことを思い出します。
思い出さない日なんてないくらいです。
震災後、誕生日は毎年すごく嬉しくて、すごく怖いです。
やっと迎えられる誕生日でもあるし、また同じことが起こるんじゃないかって不安に襲われます。
震災があって、当たり前が当たり前じゃないってことをすごく感じました。
その当たり前を大切に、これからも生きていきたいです。
私は、宮城県南部沿岸の町に住んでいます。
割と被害は小さい方でしたが、僕の家、友達の家、海の景色をあれは流して行きました。
僕は今、仮設住宅に住んでいます。
少し狭いですが、割と快適です。
ただ、僕の仮設住宅は友達が住んでいる仮設と正反対の位置にあり、学校も遠いです。
そのせいで、何か友達に置いていかれる感じがするのです。
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「今日遊びにいくから」そんなやりとりとは縁がなくなってしまいました。
ただでさえ人付き合いが苦手な僕は、学校での人間関係もあまり好ましい状態ではなく、(僕があまりにも寂しがり屋なせいかもしれませんが・・・)一時期学校が嫌になっても、あまり励ましてくれる友達もいませんでした。
ここまで読んでもらって分かったと思いますが、被災地にも「日常」はあります。
それなりに戻ってきてはいます。
いくらか変化はしましたが、これから求められるのは、その「変化」を埋める物だと思います。
「震災がなければなぁ・・・」というのを埋める別のもの。
「俺はもう終わりだ・・・」というのを埋める別のもの。
それこそが、今の東北に必要なものだと思います。
原発の近くに住んでいるので放射線の影響は少し残っている。
海は完全にダメになったが、去年の夏の終わりにやっとプールに入ることができた。
とても小さなことだが、
本当に嬉しかった。
私は宮城県の東松島市に住んでいます。震災当時は小学校6年生でした。
私の学校は割と海寄りでした。
地震がきた時点で何が起こったのかわからず唖然とするしかない、泣いている子の手を握るしかありませんでした。
もちろん津波なんて頭になくこの先のことなんか考えてもいません。
その時、先生から「そこの4人、ちょっと下で誘導の手伝いをしてくれないかな」と頼まれました。
私は泣いておらず、動ける気力があったので他の男の子3人と行きました。
慌てて避難する人を誘導していると、消防士の人が叫びました。
「津波だ」と。
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私は何が起こったかわからず、ただただ上に逃げるばかりでした。
そして、階段の窓からみた景色。
真っ黒で真っ黒で、何もありませんでした。
もう、これは現実なのかと、なんなんだと。
涙が自然と溢れて止まりませんでした。
それに私の学校は2階までしかなく、屋上と音楽室のみ3階になっていました。
水はぎりぎりまできています。みんな上に逃げて人はもみくちゃ。
私も待っていてくれた友達と手を繋いでひたすら音楽室に走りました。
そしてとりあえず逃げ終わって一段落。
でも、いつ崩れるか、波があがってくるか、落ち着きませんでした。
私を含め、6年生はだいたいみんな狭い楽器倉庫に避難しました。
私はずっとドアを抑えてました。 人が通るときは立たなくてはなりません。
ほんとは寝たいし、気を紛らわすために、みんなとふざけたかったです。
でも、自分勝手な行動はみんなに迷惑をかけるので、黙っていました。
その間は、不安が募るばかり。状況をちゃんと飲み込めず、呆然としていました。
もちろん、家族や近くの保育所の弟が心配でなりませんでした。
(弟は、押し入れの1番上に先生たちが水の中につかりながら抑えてくれてたみたいです。)
そんな中、友達、そして幼なじみの彼氏の存在はおっきかったです。
彼氏は、私が友達といるときも常に近くにいてくれて、少しだけでも安心することができました。
あの時いてくれなかったら、不安に潰されていたと思います。
こんなにも人がいることで安心したり、「ああ誰かいてよかった」なんて思ったのは初めてです。
もちろん家族に会えたときは、はんぱじゃなかったです。
みんな、生きていてくれてありがとう。
それだけでもうよかったです。
それから別のところに避難し、色んな方からの支援。とても感謝してます。
人ってこんなにも助け合えるんだと思いました。
逆に貪欲で悪いところも見て、人の本性をみた気がします。
たくさん気付けなかったことに気づけました。
卒業は別の学校でし、中学へ。
1番嫌だったのは学校が統合したことです。
友達が増えて嬉しいけど、やっぱり自分の学校は自分の学校。他の学校にはない伝統があります。
できるなら、元の学校で卒業を迎えたかったです。
あとは、今住んでる地区は、震災前と変わらないんですが、ほとんど人がいなくなってしまいました。
今までわいわいしてたのに、子供の遊んでる姿やお年寄りが会話してる姿が見られなくて、常にしんとしていて、寂しい。
更に外灯があまり無くて暗いし、前とは違う雰囲気になって、夜は通るのが怖くなってしまいました。
震災がなかったら なんて考えることもたくさんあります。
もうこれは、一生忘れない、絶対忘れられない。
あの黒い景色は特に。
あの日、地震発生から2時間くらい経ってたと思います。
余震が続く中、雪が降ってきて。
3月の中旬にしては珍しいくらい重たい雪でした。
“なんでこんな時に…”
そう思ったのを覚えています。
ただ、その時はまだ津波の情報とか入ってなかったし、何が起こってるのか整理つかなかったからそんなことしか思わなかったけど、雪の降る寒くて真っ暗闇の海にがれきと一緒に流されてしまった方々が、どんな思いで亡くなっていったんだろうっていま思うと胸が痛いです。
その日の夜まだ19時とかの話です、不謹慎かもしれないけど、星がすごくきれいだったこと今でも覚えています。
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街灯も何もなかったから。
あんなきれいな星初めて見ました。
震災が起こってから、今までなにも気づいてなかったことにありがたみを感じることが多くなりました。
やっと電気が通って炊いたごはんはものすごくおいしかったです。
それでも家族6人で分けた少ないごはんだから、おなかいっぱいにするために何十回も噛みました。
あったかいごはんがこんなにありがたいことなんだって、その時初めて気がつきました。
地震から10日くらい経ってから、ボランティアに登録して避難所の手伝いなどをしました。
そこで一番印象に残ってるのは、そこに避難してきたおばあちゃんが私にお菓子くれたことです。
おなかすいてるでしょって。
そのおばあちゃん、家を流されて避難してきた方で自分のことで精一杯なはずなのに、
私にこれ持っていきなって、おせんべい差し出してくれたんです。
「大切な食料じゃないですか、もらえないです」って断ったんですけど、
いいからいいからってポッケに入れてくれました。
なんか、すごくあったかい気持ちになりました。
あの時のおばあちゃん元気にしてるかな、会ってお礼が言いたいな。
でも、それっきり学校とか部活とかを言い訳に、被災地・被災者から自分自身遠ざかってしました。
きっとやる気になればいくらだって出来たはずなんですけどね。
そうやって中途半端にしてしまったことにどこか罪悪感のような、
自分に対する嫌悪感のような思いがあって、モヤモヤしてました。
だから、自己満足にすぎないのかもしれませんが、
大学に入って、2年生になる今年は被災地支援を行い、
石巻などに足を運んでいらっしゃる先生のゼミに入って、
今までやってこなかったこと、自分にできることを少しずつ仲間とともにやっていきたいなと思います。
また、震災をきっかけに生きることについて考えることもありました。
当時の私で16歳、同い年の人達が、まだまだやりたいたいこと、
勉強とか部活とか恋とか将来の夢とか、たくさん残して死ななければいけなかったことを思うと、
ちゃんと生きないといけないなと思いました。
亡くなった方々に怒られないように、恥ずかしくないように。
そんなこと初めて考えました。自分の中に一本芯が通った気がしてます。
なんか、うまくまとめられませんが、これが今の私の気持ちです。
震災から3年が経とうとしているのに…
福島は放射能の問題が未だに解決しておらず、
他の2県は復興が進んでいる中、福島は浜の方の復興が全然できてません。
また、前より少なくはなったけれど、福島への偏見の目。
震災直後避難した子は、
「菌がうつる!! くるな」
「近寄られるのやだ。うつるじゃん」
「放射能~」
みたいな、「被爆してるだろ?! 近寄ったらうつるから来るな」というイジメを受けていたそうです。
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Twitterでも、
「隔離しろ」
「福島県民は他県に行くな」
「みんな死ねばよかった」などと、心の痛む書き込みがありました。
私はLINEで知り合った友達にどこ出身か聞かれ、
「福島」と答えたことろ、その人はアカウントごと消えてしまいました。
私は怖くてそれ以来、どこ出身か聞かれると、
「ごめんなさい、福島です」と答えるしかなかったです。
しかし、ある県ではコンビニへ寄った際、
福島ナンバーの車を見て、
バックミラーのところに袋いっぱいのお菓子を提げていった方もいたみたいです。
私はまだ高校生という大人になる前の段階の立場ですが、
こういう立場だからこそ出来ることもあると思い、
Twitterやたくさんの番組の書き込みなどに、福島は全然危険じゃない。と呼びかけています。
まだ3年ですが、これから10年、20年と時が経ったら、きっと忘れられてしまうでしょう。
でもこの出来事は絶対に忘れては行けないと思っているので、
自分が呼びかけられる範囲で、あの時の事を呼びかけて行きたいと思ってます。
テレビやこのSCHOOL OF LOCK! でも呼びかけてもらいたいと思っています。
震災に負けずに、私はこれから、前向きに震災の事を考えたいです。
まだまだ福島は原発の問題がありますが、除染などを通して良くなることを願っています。
3年前のあの日、中学の卒業式を翌日に控えた私たちは卒業式の練習をして午前中で帰宅しました。
卒業式より一足先に渡された卒業アルバムを家で見ていた時でした。
2時46分。
地鳴りとともに今までには体験したことのないような揺れが襲いました。
何度も続く大きな余震。今まで聞いたことのないようなサイレン。
大津波警報を伝える市の防災無線。
家から見える道路に突然白い煙とともに現れた家(←海沿いの家が道路まで流されてきた)。
もう恐怖でしかありませんでした。
私の通っていた中学では防災学習を盛んに行っており、
震災時の避難所運営、炊き出し、避難者名簿の作り方などについて学習していたので
家族と一緒に中学校に避難してすぐ避難所運営の手伝いに駆り出されました。
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再び家族と再会したのは夜の9時くらいでした。
その日は家に帰れず、中学校の校庭に止めた車の中で一晩を過ごしました。
外は雪が降り、町の中心部の空は真っ赤に染まり、絶え間なくなり続けるサイレン。
ほんとに怖くてほとんど寝れることができませんでした。
翌日からは家に帰り、給水車のところに水をもらいに行き、開いている店を探す毎日でした。
電気がないので暗くなる前に夕食を済ませ、
暗くなってからは庭にさしておく園芸用のソーラーライトだけが頼りでした。
(←乾電池やろうそくはもうどこにも売っていない中、唯一買うことができたものです。
なんでこんなものを買うんだろうという目で見る人が多かった。)
予卒業式は避難所になっている一部を貸していただき定より10日遅れで行われました。
その時の卒業生代表の答辞は全国的に有名になりました。
今でも検索すると一番上に出てくるはずです。
しかし、その動画のコメント欄で『生徒会長は演技』『会長は役者』などの言葉を目にしました。
あの時どんな思いで卒業したかを分かってほしい・・・
小学校から9年間以上も一緒だった友達が
津波によって行方不明になったり、亡くなってしまったりした悲しさ。
家族や友人の安否がわからない辛さ。
これからどうなるのかわからない不安。
震災から1カ月半ほど過ぎて高校に入学することができました。
私が入学した高校は震災により校舎を流出したため、
入学式は市内の高校の一部を借りて行われ、3校に分かれての授業を経て仮設校舎で
ようやく普通の高校生らしい生活を送ることができました。
震災を超えて今の生活を送ることができるようになったのは
全国の皆さんからの支援のおかげだと思っています。
早く美しい街に戻るように頑張ります。
大地震が起こってからもう三年。
あの日は私の中学校の卒業式でした。
泣き別れをした卒業式。あの時はまだ最悪な日になるとは思ってなかった。
卒業式が終わって2日後に曾祖父の法事があったので、妹も学校を早退し曾祖母の家があるいわき市に行く準備をして。
その時はお昼をまだ食べてなかったので、お母さんと妹でお昼を買いに出かけて。
私と夜勤明けで帰って来たお父さんは、家でテレビを見て帰って来るのを待っていました。
突然テレビから地震を知らせるアラームがなって、最初はなんだろうと思っていたらいきなり揺れ始まって怖くなり、こたつの中に隠れました。
次々と落ちる本、物いつ収まってくれるだろうと思っていたらようやく収まって、
お父さんの同僚から『みんな気を付けて早く外に出ろ』と言われ、私は外に出ました。
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買い物に行っているお母さんと妹が心配になって
お父さんの携帯から電話したけどつながんなくって、
帰って来るまで心配で怖かったです。
とりあえずお父さんの勤務地である警察署に避難して他の人と一晩中一緒にいました。
時々地震で揺れる時に思っていたことは
「日本はどうなるんだろ? 大丈夫なんだろうか」
その後私の知っている人達がみんな大丈夫だと聞いた時は少し安心しました。
しかし妹がかよっていた、私が卒業した小学校は地震で倒壊して無くなってしまいました。
地震があった日に卒業した中学校は一部倒壊した所はあるけど無事な様子であり、
今私がかよっている高校は、北校舎倒壊で仮設校舎が出来るまで学校に通えなかったり、
通えても週にニ、三回は小体育館、格技場で他のクラスの音が聞こえる中の授業。
仮設校舎が出来る7月後半までこのような高校生活でした。
なので仮設校舎が出来た時、やっと自分たちの空間が出来たと思いました。
しかしそれを見ていた先生達が、三年間仮設校舎で学ぶ私達三年生のために
工事の人に頼んで早く北校舎を作り直してくれもらい、
1月後半(私達三年生は10日間のみですが)から全学年全員新しい北校舎で学んでいます。
なので私は仮設校舎と新校舎、二つの校舎が私の母校であり、三年間の思い出です。
しかし福島は地震の他に原発事故も起こって今でもたくさんのことに苦しんでいます。
最後にこの地震が起こって三年たって思ったことを書きます。
私達地震を経験した人として未来に伝え続けないといけない。
このような事態にならないようにしたいです。
私は大学に進学して保育士として働く予定です。
私が保育士になったら震災を知らない子どもたちに
分かりやすく私達のことを教えて未来に伝えて行きたいと思います。
写真は私が通った仮説校舎です
私はあの日、中学の卒業式でした。
卒業式が無事終わり、家に帰ってきてひと段落ついたところで、地震が発生しました。
私は普段から地震が苦手だったので、長すぎる揺れとテレビの中の慌てるアナウンサー、そして急に切れる電気、食器棚から流れ落ちるように割れる皿、普段見慣れない光景に言葉を失って、涙を流して泣き叫ぶことしかできませんでした。
ライフラインが全てとまり、頼りになったのは、中学の頃授業で作ったラジオでした。
それがなければ、私の家族はその時の状況を把握することが出来ていなかったと思います。
その時に、母から、「しょうこへが作ったラジオなかったらどうなってたかな」、「本当にすごいねこのラジオ」と言ってもらえて、そこで私は人の役に立つことが出来たという気持ちが、人の役に立つことがしたいという気持ちに変わっていました。
そこから私は工業高校に進学し、今に至ります。
女の子はなかなか少なくて、大変だねと言われることも何度もあります。
だけどその時に決心したことが忘れられなくて、資格取得に励み、機械について積極的に勉強しました!!
そして今年の春、機械の勉強をもっとしたくて、工学部に進学することを決め、無事進路が決まりました!
私は大学で、工業系職員免許証を取得し、工業系分野で女性でも復興に携わっていけるんだということを伝えていきたいと思っています。
私は高校で機械のことを勉強してきて、作業中に力が足りなかったり、体が一回り小さくて、機械の操作が大変だったことがありました。
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それもあってからか、大会に出たり、検定を取得して、周りの人からのおめでとうの後に必ずついてくるのは、女の子なのにすごいね、珍しいね、大変だね、という言葉でした。
でもそれは、私の中で納得のいくものではなかったんです。
なんで女っていうだけで過剰に評価されなければいけないのか、女というだけなのに、それが邪魔して、自分のこの強い復興への想いよりも、そっちが目立ってしまい、かき消されていってしまうのではないかという不安な気持ちが生まれてきました。
その気持ちから、私が工業系分野で女性が活躍するという、当たり前の環境をつくっていけばいいんだと思いました。
私にとって、高校でお世話になった先生方はとても大きな存在でした。
私もそんな先生になれば、きっとこの思いも伝わると思ったんです。
自分のこの思いが、私より後に生まれてくるたくさんの人に伝わり、復興の力になればいいと強い気持ちで思うことが増えました。
私は機械の知識で何かの形で復興に携わりたいとは思っていますが、あの時の不安や苦しみは機械では癒せないことなんて解っています。
だからこそ、携わっていく中で、今の私が伝えられる不安、苦しみは伝えていかなければいけないことなんです。
私は家に津波は来ていないし、電気と水道が止まっていただけで、自分の家で寝ることが出来ていました。
あの震災の状態で、こんなに贅沢な生活をしてたにもかかわらず、復興について考えると、不安です。苦しいんです。
夕方の県内ニュースで震災のことについて見るとたまに涙が止まらなくなるんです。
大袈裟って思う人もいるかもしれません、だけど不安で苦しい人がたくさんいることを忘れないでください。
これからも3年前の震災のようなことがあるかもしれません、
自然は何をしても止めることは出来ません、だけどこの私の少しの想いがたくさんの人に伝わって、1つでも多くの命が救われることを願っています。
当時、私は小学6年生でした。
あの日は、全学年下校時で、6年生以外は帰りの学活を行っていました。
卒業も間近だったので卒業製作を行ってました。
『カタカタっ…』これが始まりでした。
油断してた、甘くみてた、バカにしてた。
何分揺れてるか分からないぐらい、強く激しく長く揺れていた。
吊り下げられたテレビ、窓ガラスの音、どこからか割れる音、そして悲鳴。
これほど怖いものがあるか!? と、思うほど怖かった。
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……2、3日。電気が止まりロウソクの夜。
そんな日、薄い新聞が届いた。
音声でははっきり分からなかった事が、全て詳細に写真までついて届いた。
"福島第一原子力発電所 水素爆発"
今、福島県に起こったことがわかった。
そして、"大津波 被災地を襲う"
揺れより怖いものが分かった。
津波、放射能、風評被害…
食べ物と自然の豊富な東北、福島は大ダメージを受けた。
今だってそうだ。
『原発が無くなったら私たちの生活はどうするのよ。』と言っている都民。
そりゃあ困るよ? でもね、電気がなくなっても今のご時世、自力で発電だってできるし、
ロウソクの火だって美しいよ?
福島は電気を作るための県じゃない。
日本の電気を作るためにあるんじゃない。
自然があって美味しい食べ物があって、こころ温まる人がいるから福島県がある。
お願いだから他人事のように扱わないで。知らないふりしないで。
自分のまわりは幸いあの日亡くなった親戚もおらず、すんでいる街も内陸なんで被害も海沿いより小さかったですが、僕にとっては一生忘れられない日なのであの日について書こうと思います。
あの日3月11日は中学の卒業式でした。
午前中に式が終わり午後からは友達の家で遊び夜はクラスメイトと打ち上げをする予定でした。
しかし14時47分あの巨大地震に遭いました。
最初はまた地震かと思うぐらいでした。
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何故なら3月9日にも地震を体験しましたし。
最初は不覚にもそんなことを思っていましたが、初期微動が長く嫌な予感を感じた瞬間、いきなり地面が爆発したかのように大きく揺れました。
友達の部屋の漫画もフィギュアもテレビもあちこちに飛んでいきました。
僕たちは暫く自分の身を守るのに徹し暫くしてから脱出しました。
脱出する際も揺れが大きく大変でした。
その後各自家へ帰りました。
帰り道道路が盛り上がったり沈んだり、ブロック塀も崩壊したり、中には家が全壊しているところもありました。
家に帰ってみると唖然としました。
リビングでは食器も全部落ちていて破片は隣の部屋の和室にまで飛んでいてテレビも棚から落ちていていました。
自分の部屋もごちゃごちゃで部屋の端にあった学習机が移動し、自分のドアをふさいでいました。
飾っていたガンプラも全て落ちてしまい、本や棚の下敷きなっていました。
他にもベッドが移動していたりタンスが倒れていたりとまるで家の中がミキサーでかき混ぜた状態でした。
妹を小学校からつれてきた後買い出しに行きましたが、酷い有り様でした。
セブンイレブンやローソンに行きましたが中は悪臭がしていました。
飲み物が全て割れ落ちトイレの水が溢れだしていて、その上に食品が落ちていました。
とても買える状態ではありませんでした。
スーパーも同じ状態でした。
帰る頃はもう日が落ちていました。
6時頃のはずなのに夜中のように真っ暗でした。
住宅街なのに家に明かりがなく不気味でした。
見上げると満天の星空でした。
山奥にいるときよりも星がよく見えまるで宇宙にいる気分になりました。
圧巻されました。
家についた後カップ麺を家族でわけあいながら食べすぐに寝ました。
部屋はいつもと同じ真っ暗ですが全然違うように感じました。
車の音もなく人の声もなく、ただ窓から星空が輝いているだけでした。
これからどうなるのだろうと思いましたが疲れがどっときてすぐ寝れました。
本当に静かすぎる夜でした。
三年が過ぎ、壊れていたブロック塀も我が家も直り今は普通に過ごしています。
でもがれきの山もまだあり、道路も未だに直っていない場所もあります。
海沿いに比べたらまだましですが復旧したとは言えない状況です。
最近放置されている部分が沢山あるので早く復旧してほしいです。
私は震災から学んだことがあります。
不便なく暮らせることがとても幸せだということです。
被災した時は、水もなく食料も少なく停電のため暗く、ゲームもテレビもなく、道路も道が悪くまた車のガソリンもなかなか給油できないので遠くに出かけられずとても不便な生活でした。
私の周辺は一週間ぐらいで電気や水が復旧しましたが食料は暫く解消されませんでした。
あの頃は震災に対する準備もあまりしていなかったので今はまたそんな事態にならないよう、食料や水の備蓄や電池や懐中電灯を用意したりしています。
また被災した時同じ過ちをしないように意識しています。
皆さんもいつ被災するかわからないので準備しておきましょう!!
三年前、中学校の卒業式の前日、あの東日本大震災は起こりました。
ライフラインはすべて止まり卒業式ができるかどうかも分からない状況でしたが、
先生方のおかげで1週間遅れで卒業式が行われました。
しかし、在校生の出席もなく規模を小さくしての式だったので皆と写真を撮る時間もなく、あまり卒業した実感がありませんでした。
そんな不安な気持ちをもったまま...
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高校生活はスタートしたものの、まわりの友達にも恵まれて充実した毎日を過ごすことができました。
そして先日の3月1日、私は無事に高校を卒業することができました。
私の高校は私服で、卒業式が仮装大会といわれているほど派手で有名です。
友達はドレスや袴、中には舞妓さんの格好していて、私はお母さんのウェディングドレスを着ました。
私のドレス姿を見て、お母さんは、「産んでよかった」と言ってくれました。
中学のときは「卒業」というよりも「震災」という記憶のほうが強かったですが、高校ではとても華やかで、本当にステキな卒業式をすることができました。
私は4月から東京の大学に行きます。
生命科学科に進学するので、将来は震災で被害にあった地域に貢献できるような研究をしてみたいです。
また、自分自身も実際に震災の被害にあって、暗くて恐い部屋のなかで流れるラジオの音、唯一の情報を得る手段として、とてもラジオのありがたみを感じました。
また受験勉強でもラジオに励まされることが多くありました。
放送部に所属していたこともあり、将来はラジオなどメディア関係の仕事に就きたいなとも思っています。
どちらも違った職業ですが、将来は地元、宮城の復興を目指して、自分なりに出来ることを一生懸命やっていこうと思います。
地震発生時、僕たちは卒業式の最後の予行練習をしていました。
震災が起こるなど当然微塵も考えておらず、未来への期待に胸を躍らせていました。
中学校最後の思い出は、15年間の思い出や、大切なモノと共に震災によって壊されてしまいました。
あの日から3年。僕は高校を卒業し、大学へ進学します。
長かったような、あっという間だったような不思議な気持ちです。
地震発生当時は、気持ちの整理が追いつかず、
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町は復興するのに僕はもう立ち直れないのではないか、という不安がありました。
しかし、現在は様々な人たちからの支えもあり、復興に対して前向きに考えることが出来ていると思います。
逆に形の面での復興に対して不安があります。
被災した土地の未来計画や、かさ上げなど、まだまだ時間のかかる問題が山積みです。
そしてその問題に向き合っていかなければならないのは、僕たちです。
これからの東北、日本は僕たちが支えていかなくてはなりません。
あの日、僕たちは数え切れないモノを失いました。
だからこそ同じ悲しみを繰り返さないよう、未来に伝え、新たな思い出をつくって行こうと思います。
日が経つにつれて、原発の問題がどんどん公になってくる。
汚染水漏れとか、電源が壊れたとか、そんな話しばっか。
マイナスな話しか出てこなくて、正直辛いです。
小学生の弟でさえ、原発の問題に詳しくなってきています。
でも、公になる原発のニュースは、かなり大変なことなのに、ニュース番組では薄い問題として取り上げるのが悲しいです。
2011年3月11日。
「これって現実なのかな。」
真っ黒な水が全てを流していく様子を見ながらそう思いました。
私の家の庭も、家の周りも家の1階も、一瞬で呑み込まれてしまいました。
家の2階のベランダから見えたその光景は、私の心拍数を上げていきました。
恐怖心なんて存在しませんでした。
信じられなかったから。
でもむなしさというか悲しさみたいなものはあったから、
現実だってことを、きっとどこかで受け入れてたんですね。
そしたら雪がちらつき始めて、更に非現実的な光景に変わっていったんです。
寒さは感じませんでした。今考えても不思議だけど。
そしてあっというまに月が顔を出しました。
電気が止まってたから部屋を照らしてくれる分にはありがたかったけど
夢も希望も、すべて吸いとってしまうような
世界の終わりのような光景も月に照らされてしまいました。
あんな時に限ってお節介な月でした。
でも、綺麗すぎて、恨むことはできませんでした。
それともうひとつ
月とは違った情熱的な光を放ち続けるものがありました。
遠くの方で燃えていたもの。
津波火災っていうらしいです。
月による白い静かな光と炎による赤い激しい光。
両極端な光に包まれその夜は不安と共に怯えて過ごしました。
緊急地震速報は鳴り続け家は揺れ続け、
精神的におかしくなるかと思いました。
家族もばらばらで安否も確認できなくて。
ラジオからは"○○地区では数百人の遺体が浮かんでいます。"と流れ続けていました。
その地区は私の母がいた地区だったんです。
もちろん母とも連絡が取れず、心配でした。
何が何だか分からずただ震えることしかできませんでした。
寒くて長い冬の夜。
そして、やっとやっと太陽が顔を出すと、
月には照らすことができなかった光景を太陽は照らしました。
水が引いた後の光景。
泥や木、藁、どこかの家の家具、
色々なものが絡み合ってぐちゃぐちゃになってました。
2階から1階に降りると
家の中に泥が入ってきているのが分かりました。
家具は流されて部屋から部屋へ移動していたり、
だいすきだったピアノは音が出なくなっていたり。
その日の午後、消防団の車で、
避難所になっていた私の中学校に移動させてもらいました。
車を降りて校門に向かってとぼとぼと歩いていると、
誰かに名前を呼ばれました。
当時の担任の先生でした。
先生は駆け寄ってきて強く抱きしめてくれて
「よかった。よかった。」
って泣いてくれました。
その時初めて、「生きててよかった。」って本気で思ったんです。
「私が生きてることをこんなに喜んでくれる人っていたんだ。」って。
-死ねたらよかったのに-
なんて考えてた私はどこかに消えていきました。
保健の先生にも会えて、そしたら「妹が待ってるよ」って教えてくれました。
そのまま中学校の敷地内に入ると、友達がいっぱいいて
みんなで協力して炊き出しの手伝いをしてたんです。
卒業生もみんなで集まって炊き出しや子供のお世話をしてて、
あったかいなってすごくすごく思いました。
校舎内に入ると、地域ごとに教室がそれぞれ与えられてることが分かりました。
私は知り合いの先輩に案内してもらい、私の地域の教室に行きました。
そこでやっと妹と再会できて、ほんとにほんとに安心しました。
そこから私の地域には近くの建物の1部屋が与えられ、
そこが私達の正式な避難所になりました。
みんなでそこに移動してすぐに嫌いな夜がきました。
夜ってなぜか余震がすごく気になるんです。
地鳴りにも敏感になるし。
でも私より怯えていたのは妹だったんです。
まだ小学生だった妹の小さな手をにぎって、「大丈夫だよ。」と根拠もないのに言い続けました。
そしたら、誰かがこっちに近付いてくるのが見えました。
母でした。
母は遠い遠い避難所から街灯もない真っ暗な道を1人で歩いてきました。
生きててよかった、
とか
来てくれてありがとう、
とか
会いたかった、
とか
寒かっただろうな、
とか、色々な思いが込み上げてきて、涙が止まりませんでした。
そして、安心して、少しだけうとうとしてまた朝がやって来ました。
朝と夜の繰り返し。
明るくなって暗くなって。
あれだけの威力を人間に見せつけた自然は
何事も無かったかのように朝と夜を繰り返すんです。
ほんとに自然は恐ろしい。
神なんていない、って本気で思いました。
「○○さんは流された」
「○○さんが見付からない」
という噂が流れる度に
「神様助けてよ」と、神の存在を肯定する自分がいて
「神なんていないんだよ」と1人で言い聞かせてました。
だって、いたらあんなことしないでしょ?
あんなに人の命を奪ったりしないでしょ?
あんなに辛い思いさせたりしないでしょ?
でもあれだけ神を否定していた私の気持ちを揺らしたのは人間でした。
避難所に食料や水を届けてくれた人々。
募金活動をしてくれた人々。
暖かいメッセージを届けてくれた人々。
ボランティアの人々。
心配してくれた人々。
他にもいっぱいいっぱい。
日本って素敵。
世界って素敵。
どんなに小さなことでも暖かく感じるんですよ。
あとね、当たり前なんてないんだなって思いました。
家があって、ご飯を食べれて、お風呂に入れて、寝れて、
そんな当たり前だと思ってたことが一瞬で消えて無くなって、
そこで初めて気付いたんです。
"当たり前なんてこの世界には存在しない"
"だからこそ日々に感謝しなきゃないんだ"
って。
震災が私に教えてくれたこと。
命について
人間について
日本と世界について
当たり前について
ほんとは、震災なんか無くても、気付かなきゃいけなかったことなのに
気付けなかったんですよね。
「震災のおかげ」なんて表現はすごく不謹慎だけど
震災が無かったら、ずっと気付けなかったと思います。
震災から2ヶ月
がれきにも塩分にも負けず綺麗に咲いてくれました。
地面にある藁は津波で流されてきたものです。
津波で流されてきた藁という「死」の間から
チューリップという「生」が生まれてきてたんです。
久しぶりに命を感じたというか。
感動しました。
でもいくら感動できてもまだ「被災地」なんです。
今もここは「被災地」。
いつまでも「被災地」のままではいられないです。
「被災者」のままなんて絶対絶対嫌なんです。
「被災者だから」って甘えてる人はもっと嫌。
「私は被災者だから何でも許される。」
みたいな、馬鹿馬鹿しい権力を最大限に使う人。
避難所にもいたんです。
みんなで食事の準備をしてる時に、知り合いの先輩はただ座ってたんです。
おしゃべりしてたんです。
辛いのはみんな一緒なのに。
私だってできることなら座って泣いていたかった。
良くも悪くも被災者は1人じゃないんです。
私は同情されたくなくて
震災のことを自分からは詳しくは話したりしませんでした。
「可哀想」って言われると逆に辛いし惨めになるし。
「大変だね」って言われると大変だという現実を改めて突き付けられた感じがするし。
だから、震災後妹と2人で
しばらくお世話になってた親戚の家の人にも震災の話は
自分からしませんでした。
お世話になってる時点で私たちは「可哀想」な立場なのかなって思ったから。
住む場所が無い「可哀想」な子どもたちなのかなって。
私たちよりもっと大変な方々には申し訳ないけど。
とにかく、1日でも早く私達の街を元通りにしたいです。
何をすればいいのかはっきりしたことはまだわからないけど、
とりあえず3年前に住んでいた場所に戻ってまたあの街で生活したいです。
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