2017.10
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【東京会場】山極壽一講義レポート

未来授業のテーマとも繋がる「AIと人間の差はなにか」という問いに対して、山極先生は「ひらめき」という答えを返した。

ひらめきは何もエジソンのような大層なものだけを指すわけではない。日常でのちょっとした発見、それこそ「あっ、そういえば」くらいのものだって、広義的には立派なひらめきである。みなさんは誰か人と話しているときに、会話と関連性のある、もしくは何の脈絡もないようなことを考え付いたりした経験はないだろうか。その、他己が結びつくことで発生する対話から生まれるひらめきは確かに存在している。そして重要なのは、このひらめきは大昔から何も変わっていないという事実だ。私たちはよく、言語の獲得が人類の可能性を大きく広げたといった趣旨の話を聞くし、理屈的にも納得しやすい。しかし生物学的に人間を見てみると、この話には少々疑問を持つことになる。それは、人類が言語を獲得したのはおおよそ7万年前であるのに対し、人類の脳の大きさは40万年前から一向に大きくなっていないという事実だ。では、脳の肥大化が止まった40万年前に何があったのか。なぜ人類の脳はそれ以上大きくなることがなかったのか。その答えはコミュニティーの大きさである。突然だが、みなさんはいったい何人に年賀状を書き、もしくはSNSやメールで新年のあいさつをしているだろうか。これは会場にいた参加者にも投げかけられた質問なのだが、多い人で100人前後、ほとんどの人は50人以下であった。この結果のポイントはというと、150人を超す人がいなかったことだ。驚くべきことに、この150人という数字は40万年前の人類の1コミュニティーの構成人数と合致するのである!これ以上の細かい説明は省くが、つまり、人類の脳はそのコミュニティーの成長とともに肥大化し、40万年前に成熟したのだ。人類は言語を手に入れた7万年前から科学技術も含め偉大な進化を遂げてきたように思われている。しかしその実、生物としては40万年前からそう進化しておらず、人間のひらめきも40万年前から本質的には何も変わってはいないのだ。

ここで少し首をひねっている人もいるだろう。言語がないのにどうやってコミュニケーションをとるのか、そもそも言語がなきゃ考えだって浮かばないじゃないか、対話から生まれると述べていたのに言語全否定とはいかなる了見か、みなさんがすぐには納得できないのも、もっともである。だが、同じ霊長類であるサルやゴリラ、チンパンジーは言語でコミュニケーションをとっているだろうか。たしかに何種類かの鳴き声を使い分けて云々という話は聞くが、私たち人類のような高度な言語は持ち合わせていない。しかし現に、彼らの間には実に複雑なコミュニケーションが成立しているのだ。対話とは何も言語的な要素がすべてではない。いわゆる非言語的な要素、たとえば表情やジェスチャーもまた、対話の一部である。山極先生はこれを「身体のコミュニケーション」と呼んでいる。この身体のコミュニケーションについて、色々とごちゃごちゃ理屈をこねてきたが、その正体はいたってシンプルで、実際に目の前にいる相手と話すことである。いや、もっと言えば会話をせず、ただ黙って同じ時間を共有するだけでも身体のコミュニケーションと言えるかもしれない。先ほど、ひらめきは他己が結びつくことで発生する対話から生まれると述べた。この、身体のコミュニケーションこそが我ら人類のひらめきの源泉なのだ。

ところがいま、身体のコミュニケーションが脅かされつつある。それは、言語と技術の融合によって加速する「脳のコミュニケーション」の存在だ。そもそも、脳のコミュニケーションはどうやって生まれたのか。山極先生は「共感性の暴発」だと話す。人類は大きな集団で生活するようになってから、共同保育というものをするようになった。自分の子孫を他人に預けるわけだから、そこには強い信頼関係が必要だ。この信頼関係を担保したものが、他人の立場に立って考えるという共感性だった。すなわち、人類は頭の中で仮想的な相手と、実際に目の前にいない相手とコミュニケーションをとることを覚えたのである。ここで、みなさんには少し自分の生活に思いを巡らせていただきたい。友人もしくは割と親しい関係の人といるとき、たとえば電車の移動中やちょっとした待ち時間に、みんな揃って何をしているかを。答えは言わずもがな、スマートフォンである。私自身、はじめのころは誰かと一緒にいるときはあまりスマホをいじらないように気をつけていた。単純に一緒にいる相手に失礼だと思っていたからである。それがどうだろう、相手が平然とスマホをいじりだすと、では失礼して、とこちらもスマホをいじりだしてしまい、挙句の果てにその状況にあまり抵抗すら感じなくなっている自分がいる。電車に乗って、回りを見てもそうだ。同じ制服を着た高校生たちが横並びになり、無言でスマホをいじっている場面を多く見かける。皆が皆、目に見えない人とのコミュニケーションを優先しているのだ。これは何もスマホが普及してからの話ではない。電話が鳴ればちょっと失礼と言って電話に出て、メールが来ればメールを1本だけ返していいかと目の前の相手に聞く。この状況を可能にしたのが言語と情報技術である。言語ができてからというもの、人類はもっぱら記憶、つまり脳の外部化に精進してきた。壁画から楔文字、石板に木簡、羊皮紙、活版印刷と、外部化のための技術の発展に努力を惜しまなかった。そして人類はその努力の果てに、大量の文字情報を数キロバイトの電子データに収め、世界中にノータイムで送信するという芸当まで成し遂げてしまったのだ。無論、その恩恵が何もないと言えば嘘になるし、現代技術を否定してちょっと斜に構えたいわけではない。ただ、人類のコミュニケーションという観点から見たときに、情報技術はコミュニケーションのかたちを変化させるだけの力を持っているということは、れっきとした事実なのである。脳の外部化によって、脳のコミュニケーションが発達している一方で、身体のコミュニケーションは置き去りされている。これは、人類からひらめきが失われていることと同義なのである。

山極先生は、この連綿と続いてきた脳の外部化はAIによってほぼ完全化すると見ている。それはみなさんもなんとなく頷けるところであろう。ただ、AIというのは知識偏重主義である。人類の持つ知能、つまり本来生物として持っているひらめきは、知識とは違う。果たして知能を知識だけで代替できるのだろうか。ビッグデータを使い、大量の知識を統計的に整理したところで、知能とは仕組みからして違うのではないか。ただ当の人類はというと、ここしばらく数字というデータにお熱である。テイラー主義、プラクティカリズムと、数字的な証拠にこだわって物事に対処しようとしている人類は、ある意味で思考がAI化しているのではないかと思う。思考がAI化した故に、脳の外部化の最後のステップとしてAIを創ろうとしているのではないだろうか。このまま人類の思考のAI化が進むと、いよいよAIが完成したときに人類のひらめきはどうなってしまうのか。なにも未来を悲観しているつもりはないのだが、あまり良い想像ができない一面もあることは認めざるを得ないのではないだろうか。さて、最後は山極先生が考えるシンギュラリティのテーマを伝えて結びとしたい。「データから逃れるか」この言葉の意味を各々が考えれば、きっとそう暗い未来にはならないはずである。

(文責:東京農業大学国際食料情報学部国際農業開発学科 3年吉岡佑真 東京大学文学部3年安部晃司
    横浜市立大学国際総合科学部3年鈴木馨)

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