2023年11月04日
今夜は、10月14日(土)に、TOKYO FMの「スタジオイリス」で行いました、
番組の公開収録の模様をお届けします。
東京大学教授で、哲学者の國分功一郎さんをゲストにお迎えし、
アフターコロナに関することから、いま気になることまで、
話題が盛りだくさんのイベントとなりました。
國分功一郎さんは、1974年、千葉県のお生まれです。
早稲田大学政治経済学部を卒業後、
東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。
専攻は哲学で、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授をされていらっしゃいます。
主な著書に『暇と退屈の倫理学』、『スピノザ 読む人の肖像』などがあります。
──哲学に何ができるか
茂木:今でも、若い学生がかなり哲学を志して来ると思うんですけど、何が、若者たちを哲学に惹きつけるんですかね?
國分:まず、惹きつけられてると、茂木さんも思います?
茂木:僕は思います。若い学生でも「哲学をやりたい」と言う方は多いですからね。
國分:僕も結構そう思うんですよ。だから、今、割と人気はある感じがしていて。
30〜40年、あるいは50年ぐらい前だと、例えば『文学』というものを通じて、人間の真理、世界の真理に迫ることができるという大きなビジョンがあったと思うんですよ。その後1990年代ぐらいに、例えば『社会学』とか『心理学』というのが少しそれに取って代わった。
今は、その役割が『哲学』に求められてるのかもしれないという感じもちょっとするんです。「世界の真理、人間の真理を分かるためには、どうしたらいいだろう?」という時に、割と、哲学に手を伸ばす若い人がいる、という感じがちょっとしますね。
茂木:今、公開収録をしている今日の時点で、世界は大変混迷の状態にあると思うんですが、その辺りを、哲学から何か光を当てることはできるんでしょうか?
國分:一つ一つの状況について言うのはとても難しいんですけども。基本的には、「哲学に何ができるか」と言って、「できないんじゃないか」と、僕は言うべきだと思うんですよ。直接には、何もできないと思いますね。哲学に何か特別な力があるわけでも何でもないんですよね。
ただ、哲学を勉強していると、人間には疑ったり、問いを発したりする能力というのが備わってくるんですよね。あるいは、それが鍛えられていく。
だから僕は、基本的に若い人たちに哲学を大学で教えてるわけですけれども、彼らが何か疑ったり、問いを発したり…要するに「彼らを賢くしたい」と言うか、「哲学を通じて、何か彼らの頭をもっと良くしたい」と思っています。ものすごい頭のいい学生に教えているんだけども、「君たちはもっともっと頭が良くなれるぞ」と言うか。“頭がいい”とは、本当に広い意味でですよ? そういう、物事を疑うことができる、問いを発して何かを考えることができる。
だから、そういうことを目指して、僕は哲学をやっているんですよね。
もちろん、色々と、「こういう風に役立ちます」、「ああいう風に役立ちます」と言える用意はあるんですけど、でもね、僕は、そこは慎み深く、「哲学に何か直接できることがあるかと言われても、できませんよ」。「でも、将来に向かって哲学を学んだ人には、何か一つ知的な能力と言うか、それこそ知的な力を、哲学を通じて掴み取ることができるんじゃないか、それは将来何らかのいいことに繋がっていくんじゃないか」、という風には思っていますね。
茂木:哲学に触れると、必ずしも哲学研究者にならないとしても、生きる上で色々と役に立つことがある、と。
國分:そう思います。
──『不要不急』とは何だったのか
茂木:我々はちょうど今、「アフターコロナ」の時代にいるんですけれども、その間でよく聞かれたのが『不要不急』という言葉だったんですが。その「不要不急とは何だったのか?」ということで…。
國分さんは、「移動の自由」については、色んなところで触れていらっしゃると思うんですけど…。我々は日常生活の中だと、何となく「通学とか通勤で動くよな」とか、あと「旅をするよな」、あるいは「場合によっては、他の国に移住するようなこともあるよな」と思うんですけど、國分さんから見て、改めて、人間にとって移動するとか移住するということの意味とは、どこら辺にあると思いますか。
國分:やっぱり、これは一言で言うと、“人間が移動できる”というのは、人間の自由の根幹ですよね。つまりね、これはルソーという哲学者が言ってるんだけども、「何の縛りもない自然状態だったら、誰かが誰かを支配することできますか?」と言ってるんですよ。だって、「言うことを聞け」と言ったって、「はい、言うこと聞きます!」と言って、あっち向いてる隙に逃げられるわけでしょ?
茂木:確かに(笑)。
國分:そいつが持ってるものを力ずくで奪うことはできるかもしれないけど、奪われたのなら、「怖いやつがここにいるから逃げよう」と言って逃げればいいわけですよね。人間には移動する自由があるから、人の支配を逃れることもできるし、そもそも自分の根本的な自由を保つことができるんですよね。
逆に言うと、人間を何らかの仕方で動けなくしたら、その人をうまく支配することができるんですよ。例えば、借金を負わせて、「あなたはこの借金から逃れられないんだから、このタスクを延々とこなしなさい」とかね。あるいは、もっと乱暴な仕方だと、足に鎖をはめるとかね。そして、動けなくすると、その人間そのものを支配することができるようになる。
だから、誰かが誰かを支配することの根幹には、移動の自由の制限というのがあるし、人間が抑圧から逃れる、最も根源的な、大切な自由というのが、移動の自由ということなんですよね。
茂木:例えば幼い時で言うと、学校で「ここで立ってなさい」と言われて、廊下に立たされてるとか。あと大人になったら、ちょっと悪いことをしちゃって刑務所に入ってるとか、色んな形があると思うんですけど、それをあの(コロナ禍の)時、日本は移動の制限を受け入れてしまったところがあると思うんです。その辺りはどう分析されますか?
國分:そうですね。まず言っておかなければいけないのは、「それは多分必要だったことだろう」ということなんです。別に僕は全然マスクを否定してるわけでもないし、移動の自由の制限が必要だっただろうということも、僕はもちろんそう思っているし。特に、医療現場のことを考えたら、それは絶対必要なことだったろうと思うんです。
ややマイルドにして言うと、「我々は、ある意味で“易々と”移動の制限を受け入れてしまったが、そのことに対する違和感ももしかして同時に失ってはいなかったか?」、という、その“疑う気持ち”なんですよね。あの時、あれは必要だったけれども、絶対に「これは緊急事態だからしているんだ」という意識を持ってなきゃいけなかったはず。それを「もしかしたら、移動の自由というものの大切さを忘れてはいないだろうか?」ということを言いたかった、ということなんです。日本は確かに、かなり易々と受け入れたようにも思いますね。
茂木:そしてこの『不要不急』という言葉はいかがですか? 「不要不急のものはいらないんだ」とか、「省いちゃってもいいんだ」という…。
國分:この『不要不急』というのは、ある時期から出てきて、スローガンみたいになって。これは四字熟語だから、日本だけしか使っていないかもしれないけど、発想としては世界各地にあったわけですよね。「特に急を要するわけでもないし、必要というわけでもないものだったら、やめておいてください」ということなんですけど。これは結局、わかりやすく言い換えると「明確なはっきりとした目的がないんだったら、それはやらないでもらえますか」ということなんですよ。
でも、日常生活は、目的がないこと、どうでもいいことなんかたくさんありますよね(笑)。
茂木:(笑)。
國分:ところが今の社会は、何でも目的思考で考えることを強いられるんですよね。それが非常に大きな傾向としてあるところで、この不要不急の話が出てきて、それまで社会の中にあった、「何でも目的のためにやりましょう」という傾向がものすごく強められたということだと思うんです。
僕は言うのも嫌なんだけど、『タイパ』『コスパ』という言葉がありますよね。そういうのも結局、「ある目的を持って、効率よく全ての行動を行う」という、その発想がこの二つの略語に表れてるわけですよね。だから、元々そういう「目的思考で何でもやりましょう。目的を持ってないことはよくないことですし、何でも目的に基づいてやりましょう」という傾向があって。その中で『不要不急』という言葉が出てきて、それもどうしようもない事情もあって、今まであった、社会の目的志向という傾向が、非常に強められてしまったという感じがします。
●國分功一郎 (@lethal_notion)さん 公式アカウント / X(旧Twitter)
●國分功一郎 哲学研究室 公式サイト
●スピノザ――読む人の肖像 / 國分功一郎 (著)
(Amazon)
●暇と退屈の倫理学 / 國分功一郎 (著)
(Amazon)
番組の公開収録の模様をお届けします。
東京大学教授で、哲学者の國分功一郎さんをゲストにお迎えし、
アフターコロナに関することから、いま気になることまで、
話題が盛りだくさんのイベントとなりました。
國分功一郎さんは、1974年、千葉県のお生まれです。
早稲田大学政治経済学部を卒業後、
東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。
専攻は哲学で、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授をされていらっしゃいます。
主な著書に『暇と退屈の倫理学』、『スピノザ 読む人の肖像』などがあります。
──哲学に何ができるか
茂木:今でも、若い学生がかなり哲学を志して来ると思うんですけど、何が、若者たちを哲学に惹きつけるんですかね?
國分:まず、惹きつけられてると、茂木さんも思います?
茂木:僕は思います。若い学生でも「哲学をやりたい」と言う方は多いですからね。
國分:僕も結構そう思うんですよ。だから、今、割と人気はある感じがしていて。
30〜40年、あるいは50年ぐらい前だと、例えば『文学』というものを通じて、人間の真理、世界の真理に迫ることができるという大きなビジョンがあったと思うんですよ。その後1990年代ぐらいに、例えば『社会学』とか『心理学』というのが少しそれに取って代わった。
今は、その役割が『哲学』に求められてるのかもしれないという感じもちょっとするんです。「世界の真理、人間の真理を分かるためには、どうしたらいいだろう?」という時に、割と、哲学に手を伸ばす若い人がいる、という感じがちょっとしますね。
茂木:今、公開収録をしている今日の時点で、世界は大変混迷の状態にあると思うんですが、その辺りを、哲学から何か光を当てることはできるんでしょうか?
國分:一つ一つの状況について言うのはとても難しいんですけども。基本的には、「哲学に何ができるか」と言って、「できないんじゃないか」と、僕は言うべきだと思うんですよ。直接には、何もできないと思いますね。哲学に何か特別な力があるわけでも何でもないんですよね。
ただ、哲学を勉強していると、人間には疑ったり、問いを発したりする能力というのが備わってくるんですよね。あるいは、それが鍛えられていく。
だから僕は、基本的に若い人たちに哲学を大学で教えてるわけですけれども、彼らが何か疑ったり、問いを発したり…要するに「彼らを賢くしたい」と言うか、「哲学を通じて、何か彼らの頭をもっと良くしたい」と思っています。ものすごい頭のいい学生に教えているんだけども、「君たちはもっともっと頭が良くなれるぞ」と言うか。“頭がいい”とは、本当に広い意味でですよ? そういう、物事を疑うことができる、問いを発して何かを考えることができる。
だから、そういうことを目指して、僕は哲学をやっているんですよね。
もちろん、色々と、「こういう風に役立ちます」、「ああいう風に役立ちます」と言える用意はあるんですけど、でもね、僕は、そこは慎み深く、「哲学に何か直接できることがあるかと言われても、できませんよ」。「でも、将来に向かって哲学を学んだ人には、何か一つ知的な能力と言うか、それこそ知的な力を、哲学を通じて掴み取ることができるんじゃないか、それは将来何らかのいいことに繋がっていくんじゃないか」、という風には思っていますね。
茂木:哲学に触れると、必ずしも哲学研究者にならないとしても、生きる上で色々と役に立つことがある、と。
國分:そう思います。
──『不要不急』とは何だったのか
茂木:我々はちょうど今、「アフターコロナ」の時代にいるんですけれども、その間でよく聞かれたのが『不要不急』という言葉だったんですが。その「不要不急とは何だったのか?」ということで…。
國分さんは、「移動の自由」については、色んなところで触れていらっしゃると思うんですけど…。我々は日常生活の中だと、何となく「通学とか通勤で動くよな」とか、あと「旅をするよな」、あるいは「場合によっては、他の国に移住するようなこともあるよな」と思うんですけど、國分さんから見て、改めて、人間にとって移動するとか移住するということの意味とは、どこら辺にあると思いますか。
國分:やっぱり、これは一言で言うと、“人間が移動できる”というのは、人間の自由の根幹ですよね。つまりね、これはルソーという哲学者が言ってるんだけども、「何の縛りもない自然状態だったら、誰かが誰かを支配することできますか?」と言ってるんですよ。だって、「言うことを聞け」と言ったって、「はい、言うこと聞きます!」と言って、あっち向いてる隙に逃げられるわけでしょ?
茂木:確かに(笑)。
國分:そいつが持ってるものを力ずくで奪うことはできるかもしれないけど、奪われたのなら、「怖いやつがここにいるから逃げよう」と言って逃げればいいわけですよね。人間には移動する自由があるから、人の支配を逃れることもできるし、そもそも自分の根本的な自由を保つことができるんですよね。
逆に言うと、人間を何らかの仕方で動けなくしたら、その人をうまく支配することができるんですよ。例えば、借金を負わせて、「あなたはこの借金から逃れられないんだから、このタスクを延々とこなしなさい」とかね。あるいは、もっと乱暴な仕方だと、足に鎖をはめるとかね。そして、動けなくすると、その人間そのものを支配することができるようになる。
だから、誰かが誰かを支配することの根幹には、移動の自由の制限というのがあるし、人間が抑圧から逃れる、最も根源的な、大切な自由というのが、移動の自由ということなんですよね。
茂木:例えば幼い時で言うと、学校で「ここで立ってなさい」と言われて、廊下に立たされてるとか。あと大人になったら、ちょっと悪いことをしちゃって刑務所に入ってるとか、色んな形があると思うんですけど、それをあの(コロナ禍の)時、日本は移動の制限を受け入れてしまったところがあると思うんです。その辺りはどう分析されますか?
國分:そうですね。まず言っておかなければいけないのは、「それは多分必要だったことだろう」ということなんです。別に僕は全然マスクを否定してるわけでもないし、移動の自由の制限が必要だっただろうということも、僕はもちろんそう思っているし。特に、医療現場のことを考えたら、それは絶対必要なことだったろうと思うんです。
ややマイルドにして言うと、「我々は、ある意味で“易々と”移動の制限を受け入れてしまったが、そのことに対する違和感ももしかして同時に失ってはいなかったか?」、という、その“疑う気持ち”なんですよね。あの時、あれは必要だったけれども、絶対に「これは緊急事態だからしているんだ」という意識を持ってなきゃいけなかったはず。それを「もしかしたら、移動の自由というものの大切さを忘れてはいないだろうか?」ということを言いたかった、ということなんです。日本は確かに、かなり易々と受け入れたようにも思いますね。
茂木:そしてこの『不要不急』という言葉はいかがですか? 「不要不急のものはいらないんだ」とか、「省いちゃってもいいんだ」という…。
國分:この『不要不急』というのは、ある時期から出てきて、スローガンみたいになって。これは四字熟語だから、日本だけしか使っていないかもしれないけど、発想としては世界各地にあったわけですよね。「特に急を要するわけでもないし、必要というわけでもないものだったら、やめておいてください」ということなんですけど。これは結局、わかりやすく言い換えると「明確なはっきりとした目的がないんだったら、それはやらないでもらえますか」ということなんですよ。
でも、日常生活は、目的がないこと、どうでもいいことなんかたくさんありますよね(笑)。
茂木:(笑)。
國分:ところが今の社会は、何でも目的思考で考えることを強いられるんですよね。それが非常に大きな傾向としてあるところで、この不要不急の話が出てきて、それまで社会の中にあった、「何でも目的のためにやりましょう」という傾向がものすごく強められたということだと思うんです。
僕は言うのも嫌なんだけど、『タイパ』『コスパ』という言葉がありますよね。そういうのも結局、「ある目的を持って、効率よく全ての行動を行う」という、その発想がこの二つの略語に表れてるわけですよね。だから、元々そういう「目的思考で何でもやりましょう。目的を持ってないことはよくないことですし、何でも目的に基づいてやりましょう」という傾向があって。その中で『不要不急』という言葉が出てきて、それもどうしようもない事情もあって、今まであった、社会の目的志向という傾向が、非常に強められてしまったという感じがします。
●國分功一郎 (@lethal_notion)さん 公式アカウント / X(旧Twitter)
●國分功一郎 哲学研究室 公式サイト
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