2021年04月03日
中江有里さんは、1973年、大阪府のご出身。
1989年に、芸能界入り。
1991年「花をください」で歌手デビューし、
5枚のシングル、2枚のアルバムをリリースされました。
その後、数多くのTVドラマ、映画にご出演されます。
2002年「納豆ウドン」で、NHK大阪放送局が主催する、
「第23回BKラジオ ドラマ脚本懸賞」最高賞を受賞。
現在は、作家、女優、歌手、TVコメンテーターなど、幅広い活躍をされていらっしゃいます。
そして、作詞家・松井五郎さんとの出会いから、
2019年に本格的に音楽活動を再開し、先日、3枚目のアルバム
「Port de voix」をリリースされました。
──歌手活動の再開を後押ししてくれた母
茂木:アルバム「Port de voix」は全部透明感があってすごくいいですよね。『風の姿』はセルフカバーで、これはもう名曲中の名曲ですよね。
中江:そうですね。私がこの歌を歌っていた頃はまだ10代でした(笑)。歌を歌わない期間があって、今回このアルバムを作るにあたって、かつて歌っていた曲をセルフカバーするという案を頂いて、それでアレンジを変えて歌ったんですけれども。もう二十数年経っても、歌の強度が変わらないと言うか、全く古びないんだな、ということに驚きました。
茂木:言うまでもなく、作詞・作曲は中島みゆきさんの名曲ですけど。これだけの長い年月をかけてまた歌い直すというのは、どうですか?
中江:当時、私は18とか19歳とかそのぐらいの年齢だったんです。その私にみゆきさんが書いてくださった曲ではあるんだけど、やっぱりとても難しかったんですよ。分かるんですけど、自分がそこに到達できない…手が届かないけど一生懸命手を伸ばしてる、というような状態だったんです。
その歌を自分の中でずっと歌わずに溜めていた期間があって、今、40代後半に入りまして、こうやって歌うということで、“もう一度歌に出会い直したな”という気もします。あと、この『風の姿』という歌を、ある種封印していたところで、“歌うことによって、歌がもう一度生き返る”という感じがして、それだけでも“この『風の姿』をもう一回、この世に出せるんだ”ということがとても嬉しかったですね。
茂木:素敵だなぁ。そして、デビュー曲である『花をください』も、セルフカバーされてますね。
中江:はい。これはCHAGE and ASKAのASKAさんに書いていただいた曲なんですけど、これも本当に可憐な歌です。歌自体がものすごく難しいんですよ。当時、本当に歌うのに大変苦労した思い出があります。
今でも、セルフカバーで色んな場所で歌うんですけども、この歌の作詞・作曲者を知らないミュージシャンの方から、「この歌は誰が作ったの?」と、必ず聞かれるんですよ(笑)。すごく独特の旋律だ、と。
茂木:さすがASKAさんですね。
中江:そうなんですよ。で、ASKAさんがお書きになったということを知ると、「なるほど」と皆さんが納得されるという(笑)、そういう歌なんですね。
茂木:今回、デビュー作でお世話になっていた松井五郎さんと初めてちゃんとお話して、その時に、お母様がいろいろ声をかけてくださったみたいですね。
中江:そうなんです。実は、松井さんと出会って、それから交流ができて、「歌をやってみませんか?」という話があった時に、ちょうど私の母に病気が発覚しまして。それは余命が告げられるような病だったんですけれども…。
私が母に「松井さんと歌をやるかもしれない」という話をした時に、「もう一回歌っている姿を見たい」と言われたんです。母は、かつて私が歌手だった頃のことがとても印象に残っているようで、私はそれが母の励みになるのならやってみたいな、と思いました。自分自身の不完全燃焼の気持ちもあったんですけど、それで2020年の2月に初ライブを行なって、その時に母も来てくれました。
茂木:良かったねぇ…!
中江:そう。それで私の歌っている姿を見せることができたんです。残念ながら、その後に母は他界したんですけれども、でも、その自分の歌を聴いた時の母の反応が、本当にとっても嬉しそうだったんです。
ずっと具合が悪かったのに、もうビックリするぐらい元気で。私の歌を聴いて「本当にパワーを貰えた」と言われた時に、“ちゃんと歌った意味はあったんだな”と感じました。
茂木:お母さんは随分苦労されたんですよね。
中江:そうですね。うちは母子家庭なんですね。母は私と妹を引き取って、ずーっと本当に休みなく働き続けた人だったので、病気になってはじめて仕事を辞めたんです。そこまでずーっと働き続けていて…。
茂木:そうなんだ。娘が有名になったから、もう悠々自適とかじゃないんですか。
中江:全然そんなんじゃないです。働くことが好きだったというのもあるんですけど。
だから、病気が分かってすぐに仕事を辞めなきゃいけない、となって、仕事を辞めて、そこから約1年で亡くなったんですけど。色んな治療とか、コロナの影響で会えなかったりとか、本当に色んなことがありました。
私自身も胸を締め付けられるようなことが多かったですけど、母も辛い中、一生懸命治療に向かって頑張っていて。それは本当に私たち娘とか家族のために、1日でも長く生きたい、という気持ちを持っていたのが、見ていて分かりましたね。
茂木:写真を拝見しましたけど、すごく素敵なお母さんですね。
中江:自分で言うのはなんですけど、綺麗な人だったなと思います(笑)。
母の若い時の写真もそうなんですけど…。私の母は飲食店で働いていたんですけど、私もよくそのお店に行ったりしていました。その時に、もっと家にいて私の面倒をみて欲しいという気持ちがどこかにあったんですけど、働いている母の姿を見ていたら、本当に生き生きとキラキラしているんですよ。その綺麗な顔を見ていたら、何にも言えなくなっちゃうんですね(笑)。
だから、こうやって生き生きとキラキラして綺麗だなと思える気持ちで、母に家にいてもっと自分のことをみて欲しいと思っていた気持ちが消え去ってしまうとは、“こんな説得力のあることないな”と思いましたね。
茂木:(ライブで歌っている姿を、)お母様もどこかで見てくださってるかもしれないですね。
中江:母が背を押してくれたという部分も大きかったですけれども、あの時に歌を聴いて元気になってくれた顔というのは、今でもすごい自分の励みになっているんですよね。
だから、そういうふうにどこかで、私の歌を聴いて力が出たとか、励まされたとか、慰められたというような、ほんのちょっとでもいいんだけれども、そういうものがあるのなら、自分も歌をやる意味があるんじゃないかな、というふうに思っています。
●中江有里 公式ホームページ
↑中江さんの最新情報は、こちらをご覧ください。
●中江有里 yuri nakae(@yurinbow) Twitter
●Port de voix / 中江有里
(Amazon)
1989年に、芸能界入り。
1991年「花をください」で歌手デビューし、
5枚のシングル、2枚のアルバムをリリースされました。
その後、数多くのTVドラマ、映画にご出演されます。
2002年「納豆ウドン」で、NHK大阪放送局が主催する、
「第23回BKラジオ ドラマ脚本懸賞」最高賞を受賞。
現在は、作家、女優、歌手、TVコメンテーターなど、幅広い活躍をされていらっしゃいます。
そして、作詞家・松井五郎さんとの出会いから、
2019年に本格的に音楽活動を再開し、先日、3枚目のアルバム
「Port de voix」をリリースされました。
──歌手活動の再開を後押ししてくれた母
茂木:アルバム「Port de voix」は全部透明感があってすごくいいですよね。『風の姿』はセルフカバーで、これはもう名曲中の名曲ですよね。
中江:そうですね。私がこの歌を歌っていた頃はまだ10代でした(笑)。歌を歌わない期間があって、今回このアルバムを作るにあたって、かつて歌っていた曲をセルフカバーするという案を頂いて、それでアレンジを変えて歌ったんですけれども。もう二十数年経っても、歌の強度が変わらないと言うか、全く古びないんだな、ということに驚きました。
茂木:言うまでもなく、作詞・作曲は中島みゆきさんの名曲ですけど。これだけの長い年月をかけてまた歌い直すというのは、どうですか?
中江:当時、私は18とか19歳とかそのぐらいの年齢だったんです。その私にみゆきさんが書いてくださった曲ではあるんだけど、やっぱりとても難しかったんですよ。分かるんですけど、自分がそこに到達できない…手が届かないけど一生懸命手を伸ばしてる、というような状態だったんです。
その歌を自分の中でずっと歌わずに溜めていた期間があって、今、40代後半に入りまして、こうやって歌うということで、“もう一度歌に出会い直したな”という気もします。あと、この『風の姿』という歌を、ある種封印していたところで、“歌うことによって、歌がもう一度生き返る”という感じがして、それだけでも“この『風の姿』をもう一回、この世に出せるんだ”ということがとても嬉しかったですね。
茂木:素敵だなぁ。そして、デビュー曲である『花をください』も、セルフカバーされてますね。
中江:はい。これはCHAGE and ASKAのASKAさんに書いていただいた曲なんですけど、これも本当に可憐な歌です。歌自体がものすごく難しいんですよ。当時、本当に歌うのに大変苦労した思い出があります。
今でも、セルフカバーで色んな場所で歌うんですけども、この歌の作詞・作曲者を知らないミュージシャンの方から、「この歌は誰が作ったの?」と、必ず聞かれるんですよ(笑)。すごく独特の旋律だ、と。
茂木:さすがASKAさんですね。
中江:そうなんですよ。で、ASKAさんがお書きになったということを知ると、「なるほど」と皆さんが納得されるという(笑)、そういう歌なんですね。
茂木:今回、デビュー作でお世話になっていた松井五郎さんと初めてちゃんとお話して、その時に、お母様がいろいろ声をかけてくださったみたいですね。
中江:そうなんです。実は、松井さんと出会って、それから交流ができて、「歌をやってみませんか?」という話があった時に、ちょうど私の母に病気が発覚しまして。それは余命が告げられるような病だったんですけれども…。
私が母に「松井さんと歌をやるかもしれない」という話をした時に、「もう一回歌っている姿を見たい」と言われたんです。母は、かつて私が歌手だった頃のことがとても印象に残っているようで、私はそれが母の励みになるのならやってみたいな、と思いました。自分自身の不完全燃焼の気持ちもあったんですけど、それで2020年の2月に初ライブを行なって、その時に母も来てくれました。
茂木:良かったねぇ…!
中江:そう。それで私の歌っている姿を見せることができたんです。残念ながら、その後に母は他界したんですけれども、でも、その自分の歌を聴いた時の母の反応が、本当にとっても嬉しそうだったんです。
ずっと具合が悪かったのに、もうビックリするぐらい元気で。私の歌を聴いて「本当にパワーを貰えた」と言われた時に、“ちゃんと歌った意味はあったんだな”と感じました。
茂木:お母さんは随分苦労されたんですよね。
中江:そうですね。うちは母子家庭なんですね。母は私と妹を引き取って、ずーっと本当に休みなく働き続けた人だったので、病気になってはじめて仕事を辞めたんです。そこまでずーっと働き続けていて…。
茂木:そうなんだ。娘が有名になったから、もう悠々自適とかじゃないんですか。
中江:全然そんなんじゃないです。働くことが好きだったというのもあるんですけど。
だから、病気が分かってすぐに仕事を辞めなきゃいけない、となって、仕事を辞めて、そこから約1年で亡くなったんですけど。色んな治療とか、コロナの影響で会えなかったりとか、本当に色んなことがありました。
私自身も胸を締め付けられるようなことが多かったですけど、母も辛い中、一生懸命治療に向かって頑張っていて。それは本当に私たち娘とか家族のために、1日でも長く生きたい、という気持ちを持っていたのが、見ていて分かりましたね。
茂木:写真を拝見しましたけど、すごく素敵なお母さんですね。
中江:自分で言うのはなんですけど、綺麗な人だったなと思います(笑)。
母の若い時の写真もそうなんですけど…。私の母は飲食店で働いていたんですけど、私もよくそのお店に行ったりしていました。その時に、もっと家にいて私の面倒をみて欲しいという気持ちがどこかにあったんですけど、働いている母の姿を見ていたら、本当に生き生きとキラキラしているんですよ。その綺麗な顔を見ていたら、何にも言えなくなっちゃうんですね(笑)。
だから、こうやって生き生きとキラキラして綺麗だなと思える気持ちで、母に家にいてもっと自分のことをみて欲しいと思っていた気持ちが消え去ってしまうとは、“こんな説得力のあることないな”と思いましたね。
茂木:(ライブで歌っている姿を、)お母様もどこかで見てくださってるかもしれないですね。
中江:母が背を押してくれたという部分も大きかったですけれども、あの時に歌を聴いて元気になってくれた顔というのは、今でもすごい自分の励みになっているんですよね。
だから、そういうふうにどこかで、私の歌を聴いて力が出たとか、励まされたとか、慰められたというような、ほんのちょっとでもいいんだけれども、そういうものがあるのなら、自分も歌をやる意味があるんじゃないかな、というふうに思っています。
●中江有里 公式ホームページ
↑中江さんの最新情報は、こちらをご覧ください。
●中江有里 yuri nakae(@yurinbow) Twitter
●Port de voix / 中江有里
(Amazon)