2019年09月28日
今週ゲストにお迎えしたのは、先週に引き続き
『ハイ・コロラトゥーラ』の持ち主でいらっしゃる、ソプラノ歌手の田中彩子さんです。
京都府のご出身で、現在、ウィーンにお住まいです。
10代からその類いまれなコロラトゥーラの才能を注目され、ウィーンにおいて本格的に声楽を学ばれます。
22歳で、スイスのベルン州立歌劇場において、日本人初、かつ最年少でソリスト・デビューを飾られます。
その後もヨーロッパ各地でソリストとして迎えられ賞賛を浴び、
2014年には日本デビューを果たし、以来毎年秋にコンサートツアーを開催されていらっしゃいます。
今年「ニューズウィーク」誌の、世界が尊敬する日本人100に選出され注目を集めています。
25日には、2年ぶりに日本で3枚目のアルバム『ヴォカリーズ』を発売されました。
──いつだって挑戦者
茂木:ご自分の声がコロラトゥーラに向いていると分かったのはいつですか?
田中:17歳です。歌の先生を紹介してもらった際に「ちょっと声を出してごらん」と言われて、歌ってみるとどこまでも果てしなく高い音が出て。
「これはすごく珍しい声、歌った方が良いんじゃない?」ということで、それがきっかけでした。
茂木:そしてウィーンに行かれるわけですけど。ウィーンに行った時はドイツ語もできなかったと伺っています。
田中:何もできなかったですね(笑)。
茂木:とても大胆ですね。
田中:人生において常に挑戦者なので(笑)。
茂木:しかも片道切符で行かれたんですよね?
田中:帰りの切符を持っていたら“帰れるかも”と思って甘えてしまいますよね、それが嫌でした。
“もう帰る道はないよ”という気持ちがあったので。
茂木:田中さんは美しい姿をされていますけど、心の中にはフロンティアスピリットというか、“やったるで!”みたいな気持ちがありますね。
田中:“やるならやったるで!”ですね(笑)。
茂木:ご家庭は音楽一家だったんですか?
田中:家は三代続く材木問屋でした(笑)。
茂木:京都の材木問屋で、なぜ突然音楽の才能が?
田中:小さい頃、意識を持った時点でピアノを弾いていたんです。私にとって、「ご飯を食べる」「寝る」「お風呂に入る」「ピアノ弾く」というのは同じレベルで、音楽をやるということが体の一部でした。
「なぜ?」と言われたら、それは分かりません。音楽と気が合ったのではないでしょうか(笑)。
茂木:若くしてウィーンへ行って、最初は寂しかったり辛かったこともあったんじゃないですか?
田中:それなりにありましたけどね……言葉が違うだけではなく、コミュニケーションのとり方もまったく違いました。
そういう感覚の違いで、すごく傷付いたり、逆に傷付けていることもあったかもしれません。そういった大変さはありました。
茂木:そして、スイスのベルン州立歌劇場で「フィガロの結婚」でソリストデビューをされました。
これは大抜擢だったわけですども、初めて舞台に立った時はいかがでしたか?
田中:舞台に立って初めて、“こういう仕事なんだな”という事が分かりました。
私一人が歌って終わる話じゃないんだな、私が歌うまでにあたって多くの人が動いていて、私がいるのはその氷山の一角でしかないと思いました。
責任感や、軽い気持ちで考えていた歌というものが、そこで根本的に変わりました。
茂木:バルバリーナという役で出られて、最後まで出演していますし、デビューでやる役としてはかなりやり甲斐があったんじゃないですか?
田中:監督の方が“バルバリーナをいっぱい舞台に出したい”という方でしたので演技の勉強にもなりました。
あと、客観的に他の人たちがどういう風に歌っているのが見る機会があったので。
茂木:公演しながら自分でも学習していったんですね。
ベルン州立歌劇場は、アグネス・バルツァさんやホセ・カレーラスさんも出ていたということで、聴衆の方も耳が肥えていたんじゃないんですかね。
田中:そうでしょうね。
茂木:今回の『ヴォカリーズ』は、田中彩子さんの、声楽家としての今までの取組みの集大成と同時に、今までクラシック界でされたことがない試みをされていて、チャレンジですね。
田中:はい、チャレンジではありますね。
●3枚目のアルバム『Vocalise』 / 田中彩子
(Amazon)
●田中彩子さん 公式ホームページ
「田中彩子 ソプラノ・リサイタル 2019」について、詳しくは、田中彩子さんのホームページをご覧ください。
来週は、元陸上選手で、現在スポーツコメンテーターとしてご活躍中の
為末大さんをゲストにお迎えします。
『ハイ・コロラトゥーラ』の持ち主でいらっしゃる、ソプラノ歌手の田中彩子さんです。
京都府のご出身で、現在、ウィーンにお住まいです。
10代からその類いまれなコロラトゥーラの才能を注目され、ウィーンにおいて本格的に声楽を学ばれます。
22歳で、スイスのベルン州立歌劇場において、日本人初、かつ最年少でソリスト・デビューを飾られます。
その後もヨーロッパ各地でソリストとして迎えられ賞賛を浴び、
2014年には日本デビューを果たし、以来毎年秋にコンサートツアーを開催されていらっしゃいます。
今年「ニューズウィーク」誌の、世界が尊敬する日本人100に選出され注目を集めています。
25日には、2年ぶりに日本で3枚目のアルバム『ヴォカリーズ』を発売されました。
──いつだって挑戦者
茂木:ご自分の声がコロラトゥーラに向いていると分かったのはいつですか?
田中:17歳です。歌の先生を紹介してもらった際に「ちょっと声を出してごらん」と言われて、歌ってみるとどこまでも果てしなく高い音が出て。
「これはすごく珍しい声、歌った方が良いんじゃない?」ということで、それがきっかけでした。
茂木:そしてウィーンに行かれるわけですけど。ウィーンに行った時はドイツ語もできなかったと伺っています。
田中:何もできなかったですね(笑)。
茂木:とても大胆ですね。
田中:人生において常に挑戦者なので(笑)。
茂木:しかも片道切符で行かれたんですよね?
田中:帰りの切符を持っていたら“帰れるかも”と思って甘えてしまいますよね、それが嫌でした。
“もう帰る道はないよ”という気持ちがあったので。
茂木:田中さんは美しい姿をされていますけど、心の中にはフロンティアスピリットというか、“やったるで!”みたいな気持ちがありますね。
田中:“やるならやったるで!”ですね(笑)。
茂木:ご家庭は音楽一家だったんですか?
田中:家は三代続く材木問屋でした(笑)。
茂木:京都の材木問屋で、なぜ突然音楽の才能が?
田中:小さい頃、意識を持った時点でピアノを弾いていたんです。私にとって、「ご飯を食べる」「寝る」「お風呂に入る」「ピアノ弾く」というのは同じレベルで、音楽をやるということが体の一部でした。
「なぜ?」と言われたら、それは分かりません。音楽と気が合ったのではないでしょうか(笑)。
茂木:若くしてウィーンへ行って、最初は寂しかったり辛かったこともあったんじゃないですか?
田中:それなりにありましたけどね……言葉が違うだけではなく、コミュニケーションのとり方もまったく違いました。
そういう感覚の違いで、すごく傷付いたり、逆に傷付けていることもあったかもしれません。そういった大変さはありました。
茂木:そして、スイスのベルン州立歌劇場で「フィガロの結婚」でソリストデビューをされました。
これは大抜擢だったわけですども、初めて舞台に立った時はいかがでしたか?
田中:舞台に立って初めて、“こういう仕事なんだな”という事が分かりました。
私一人が歌って終わる話じゃないんだな、私が歌うまでにあたって多くの人が動いていて、私がいるのはその氷山の一角でしかないと思いました。
責任感や、軽い気持ちで考えていた歌というものが、そこで根本的に変わりました。
茂木:バルバリーナという役で出られて、最後まで出演していますし、デビューでやる役としてはかなりやり甲斐があったんじゃないですか?
田中:監督の方が“バルバリーナをいっぱい舞台に出したい”という方でしたので演技の勉強にもなりました。
あと、客観的に他の人たちがどういう風に歌っているのが見る機会があったので。
茂木:公演しながら自分でも学習していったんですね。
ベルン州立歌劇場は、アグネス・バルツァさんやホセ・カレーラスさんも出ていたということで、聴衆の方も耳が肥えていたんじゃないんですかね。
田中:そうでしょうね。
茂木:今回の『ヴォカリーズ』は、田中彩子さんの、声楽家としての今までの取組みの集大成と同時に、今までクラシック界でされたことがない試みをされていて、チャレンジですね。
田中:はい、チャレンジではありますね。
●3枚目のアルバム『Vocalise』 / 田中彩子
(Amazon)
●田中彩子さん 公式ホームページ
「田中彩子 ソプラノ・リサイタル 2019」について、詳しくは、田中彩子さんのホームページをご覧ください。
来週は、元陸上選手で、現在スポーツコメンテーターとしてご活躍中の
為末大さんをゲストにお迎えします。