Dream Heart(ドリームハート)

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Dream HEART vol.328 デア・リング東京オーケストラ 創立者 指揮者・西脇義訓さん

2019年07月13日

今週ゲストにお迎えしたのは、「デア・リング東京オーケストラ」の創立者で、指揮者の西脇義訓さんです。

1948年愛知県生まれ。
15歳でチェロを始め、大学では慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラに在籍されました。

1971年に日本ホログラム、現在のユニバーサル ミュージックに入社されました。
2001年には、録音家の福井末憲さんとともに、N&F社を設立。

長岡京室内アンサンブル、サイトウ・キネン・オーケストラ チェリストの青木十良さんなどの録音CD制作に携われています。
そして、2013年にはデアリング東京オーケストラを創立、録音プロデューサーと指揮者を兼ねて現在に至ります。


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──音楽を愛し続けた人生

茂木:音楽は子供の頃からお好きだったんですよね。

西脇:好きでしたね。3歳で幼稚園に入ったときに僕一人だけ歌を歌って入園式のときにスキップして出てきたらしいんですよ。それを母親が見て「この子は音楽が好きかもしれない」ということで、木琴教室に10年間くらい通っていましたね。

茂木:その頃はどんな音楽をよくお聴きになっていたんですか?

西脇:うちには多少、ショパンのSP(SPレコード)があって、それを当時はよく聴いてましたね。

茂木:大学は音大には行かず、慶應大学に行かれていますが、音大に行くことは考えなかったんですか?

西脇:本当は行きたかったと思うんです。だけど、僕の周りには音楽が好きな人は結構いたんだけど、音楽家なんて誰もいないし、どうやったら音楽家になれるかって教えてくれる人が周りにいなかったんですよ。
木琴はやらせてくれてたんだけど、オーケストラではないので、高校2年生でようやくチェロを始めたんですけど、
そこから始めて音楽大学なんか入れるわけないってこともわかっていたんですよ。とにかくオーケストラがやりたいわけですから、大学に入ったらオーケストラがあるっていうことをだんだんわかってきたので、オーケストラのある大学を選んで受験したんですね。
その中で慶應大学は僕が調べた中でも一番歴史があるし、良いオーケストラだろうなと思って。ワグネル・ソサィエティーに入るために慶應に入ったという感じです(笑)。

茂木:オーケストラ目当てで慶應大学に入られたんですね!
そして、日本ホログラム、現在のユニバーサル ミュージックに入社されたわけですが、そこではどんなお仕事をされていたんですか?

西脇:入社して希望を聞かれるわけですよね。当時は13人ぐらい大卒で入ったんですけど、12人までは制作と宣伝を希望したんですよ。だけど、物を作ってもそれが売れなければ何もならないですよね。
僕は名古屋の商家に生まれたってこともあって、学校でもそういう勉強を一応はしてたので最先端のものが売れるところを経験してからじゃないと良い制作はできないと思ったんですよ。
もちろんで制作が第一希望ですよ。だけど、あえて営業を希望したんです。

茂木:営業から始められたんですね。いろいろ苦労があったんじゃないですか?

西脇:ものすごく苦労しました。営業に配属はすぐ決まったんですけど、僕はもう二度と名古屋には戻らないというつもりで東京のレコード会社に入ったのに、最初の配属先は名古屋だったんです。名古屋というのは商売的にものすごく厳しい土地柄なんですよね。
レコード店に自社の商品を売っていくわけなんですけど、ものすごく鍛えられました。

茂木:そこから始まって、その後は制作の方に行かれたんですか。

西脇:名古屋には8年ぐらいいて、なかなか制作に呼ばれたかったんですよ。だから、これはもう駄目だなと思って諦めようとしかかったときに、東京に来てクラシックに配属するから来なさいと言われまして。

茂木:ついに!

西脇:念願叶って東京行きまして、クラシック制作部に入りました。
一番中心にやっていたの広報でしたね。フィリップスはオランダに本社があったので、オランダで製作したものを日本のマーケットに合うように、当時はLPでしたけど、日本版として売り出すというのが役目だったので、その中で広報を中心に最初はやってました。

茂木:そんな中で、頭の中にオーケストラの理想の響きみたいなのが膨らんできていたんでしょうか。

西脇:常にありましたね。世界の第一線のオーケストラが次から次へと来るんですけど、クラシック制作部にいたおかげでベルリンフィルやウィーンフィルという、第一線のオーケストラが日本で行うツアーのリハーサルや本番も含めて、かなり聴くことができましたし、
しばらくしたらサイトウ・キネン・オーケストラをやるようになったんですよね。それこそ毎年一回やってるわけですけど、集合するところから録音するとこまで、ほとんど全てを現場で立ち会うことができたんですよ。それは非常にも勉強になりましたね。

茂木:音楽をずっと愛し続けてきた人生なんですね!

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茂木:そんな中で、2001年にN&Fという会社を創立されるわけなんですけど、自分たちでレコードを作りたいという思いが募ったのでしょうか?

西脇:2001年に独立したんですけど、会社辞めたのは1999年で21世紀の直前だったんです。
その頃になるとレコード会社の再編成というのが行われて、当時クラシックの三大レーベルと言われたグラモフォンと、デッカ、フィリップスが統合されちゃったんですよね。
それぞれの個性を発揮して統合されてもやっていくということだったんですけど、やはり統合されてしまうとだんだん一緒になってくるもんなんですよ。
フィリップスという特色あるレーベルでずっとやってきたんですけれども、だんだん特色が薄れてきて、自分たちが目指すものが出来なくなってきてるなと思ったので、それを機会に独立したんですよ。

茂木:西脇さんは現在、指揮者としてデア・リング東京オーケストラを率いていらっしゃるわけですけれど、西脇さんの考える理想の指揮者っていうのはどういう存在ですか?

西脇:日本語で指揮者という風に訳してますけれども、一般的に言われているのはコンダクターですよね。コンダクターというのは車掌さんと言うことで、列車の運行がスムーズにいくように整理をしたり、トラブルがあったら対処するとかそういう役目だと思うんですけれども、
それを指揮者という風に日本では訳したので、刀剣を振りかざしてエイヤ、突撃というようなイメージがちょっと強いと思いますね。
本当はオーケストラ全体の流れ、列車の進む方向というのがあって、みんなが快適に旅行ができるようにするのがコンダクターだと思うんです。

茂木:自分が求める音を実現するためにオーケストラをまず自分で作られて、指揮者もされて、録音のプロデューサーもされているということですけど、50歳を過ぎてからいろんな行動を起こし始めたわけですけども、年齢に関係なく夢に向かって頑張る秘訣みたいなものってありますか?

西脇:僕はやっぱり、オーケストラが本当に好きだったんでしょうね。子供の頃から好きで、だんだん自分自身の理想のオーケストラ像っていうのが自分の中でどんどん出来てきて。
その中で、僕は最初に聴いて感動した、未完成のような響きのオーケストラが今は逆になくなってきてると思うんです。

茂木:なるほど。

西脇:だから、そこに戻りたいというのがあるんですよね。

茂木:まさに革新であると同時に原点であると。
そういう熱いパッション、情熱のようなものがあれば何歳になってもできるって事ですかね。

西脇:僕は音楽が好きだからというのもありますけど、他の分野でも好きなことがあれば歳なんか関係ないし、好きなことがある方は多少障害とか反対があってもやられた方がいいと思います。

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デア・リング東京オーケストラ 公式サイト

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来週は7月20日から、渋谷ユーロスペースを皮切りに、全国で順次公開されます、
映画「五億円のじんせい」の監督、ムン・ソンホさんをお迎えしてお送りいたします。
お楽しみに!