2017年02月05日
今週は、トラベルライターの兼高かおるさんをお迎えしました。
兼高さんは、1928年生まれで、現在88歳。
日本の高校を卒業後、ロサンゼルス市立大学に留学され、
帰国後は、トラベルライターとしてジャパンタイムスなどで活躍されます。
兼高さんといえば、1959年から1990年まで放送されたテレビ番組、
「兼高かおる 世界の旅」で、ご存知の方も多いことでしょう。
番組では、レポーター、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーと、
全て1人で務められ、その取材内容は多くの視聴者に親しまれてきました。
その兼高さんが、秀和システムから、作家の曽野綾子さんとの共著「わたくしたちの旅のかたち」を刊行されました。
兼高さんが海外取材から見たモノは何だったのか?
当時のエピソードを交えながら、振り返っていただきました。
──31年もの長寿番組「兼高かおる 世界の旅」
茂木:兼高さんといえば、テレビ番組「兼高かおる 世界の旅」、1959年から31年間放送されたんですね。素晴らしい番組でしたね。
兼高:ありがとうございます。わが青春を全部かけました。
茂木:一年のうち、ほとんど海外に行かれてたんですか?
兼高:ほとんどではなく半分くらいですね。
茂木:何カ国くらい行ったことになるんですか?
兼高:始めた頃は国の数は9、10くらいだったんです。終わった頃は100近くでしたね。
茂木:当時は日本人がまだ自由に海外に行けない頃じゃないですか?
兼高:日本にまだお金がなかったから、お金を銀行から買う、それの許可が小さかったんです。
重要なお仕事がある方には、1日17ドルくらいの許可が出たんです。
茂木:外貨が貴重な時代だったんですね。兼高さん自身はアメリカに留学されていたわけですもんね。
あの番組は、どのように始まったんですか?
兼高:あの頃、日本人は外国に遊びでは行くチャンスもなかったんですね。
そこに、パンアメリカン航空という、アメリカの航空会社。当時は世界一と言ってました。
そのミスター・ジョーンズという方が、「日本は資源のない国だけど日本そのものが観光客を呼べる。これが今後の日本のためになる」ということで、私をテストしたんですね。私に九州を取材してらっしゃいと言って、九州を1ヶ月くらい見て、外人が来たときに楽しみがあるか見たんです。
茂木:なるほど。
兼高:食べ物も美味しいものは沢山あります。外人に食べられないものはほとんどないんですよ。
問題は、外国人が慣れないものがいくつかありました。当時はホテルじゃなくて、宿屋が多かったんですよ。
我々にとって、何でもないことがいっぱい浮き上がってきて、その報告を彼に出しました。
彼が私を見たのは、どれくらい能力があるのかを見たので。
九州そのものに観光客が喜ぶような場所をテストしたのか、私をテストしたのかという両方なんですね。
それが始まりだったんです。
茂木:そこから始まったんですね。
兼高:そういう事もいろいろ重なり合って、パンアメリカンが協賛して番組ができたんです。
茂木:始まったときは31年も続くと思われてました?
兼高:全然思わなかったですね。
でも、経済界の人っていうのは先を見る人が多いですね。番組を始めたときに、商工会議所の人が「日本の未来は、海外と結びまわらないといけない」とおっしゃっていて。ですから、こちらはトラベルとむすびつける、経済界の人は商業でむすびつける、ということで一致しまして、けっこう皆さんに見ていただきました。
茂木:本当に大人気番組だったので、街で「兼高さんだ」と言われたりとかしました?
兼高:そうなんです。私は写真を撮られることが大嫌いなんですね(笑)。
人に知られるというのが嫌なんですよ、「兼高さん」と言われると、つい「はい」なんてうっかり返事をしちゃったり。
それくらい知られた番組になったんですね。
──日本の女性とは
茂木:兼高さんは、秀和システムから、作家の曽野綾子さんとの共著「わたくしたちの旅のかたち」を刊行されました。
対談形式なので非常に読みやすいんですけど、曽野さんとお話になっていかがでしたか?
兼高:豊富でいらっしゃるのと、共通点はアフリカによく言ってることですね。
私の方は庶民的ですね(笑)。
茂木:兼高さんはお嬢様というイメージがありますが(笑)。
兼高:うちの者が聞いたら、お腹抱えて笑いますよ。
茂木:女性として、なんであんな素敵な女性に生きてこられたのか秘密はあるんですか?
兼高:地のままが出てるだけです。聞かん坊でお転婆で…そういうのが将来があるんですよ(笑)。
茂木:女性として、おしとやかさもあるし、一方で茶目っ気がありますよね。
兼高:二役も、三役もできなきゃ日本の女じゃない。私は木に登る猿でもあるけども、お客様が来た時は、ちゃんと障子も唐紙も座って開けます。
茂木:基本ができてないといけないんですね。
兼高:そうですね。女の子は日本の礼儀を仕込まれましたからね。
日本の礼儀は女を綺麗に見せます、それが、外国で仕事をするときも指先も綺麗に使えます。
茂木:先ほどから、仕草もエレガントなんですよね。
兼高:お茶を飲むときも、片手ではなく両手を使います。両手を使うことで相手に興味をそそるんですよ。
茂木:いま、グローバル人材ということをよく言われるんですけど
当時から兼高さんは、世界的に交友関係もおありになって、活躍されている一方で日本女性としての礼儀とか嗜みっていうのは?
兼高:日本の女としては宝なんです。日本人にしろ、アジアの女の人って顔も形も似てますよね。
どこで差をつけるかと言うと、日常のマナーなんですよ。
茂木:そう考えますと、いま日本女性も海外で活躍しなくちゃいけない時代ですけど。
その時に持っておく心構えを、あの番組を通して教えてくださっていたような気がしますね。
兼高:教えるっていうことは本当に難しいですね。
勉強だけじゃなくて、日本古来からの礼儀を身に付けておいた方が、世界のどこに行ってもアイデンティティになりますよね。
きちんと綺麗に学ぶ、女のマナーを守ってもらいたいですね。
●「わたくしたちの旅のかたち」
兼高かおる, 曽野綾子
(Amazon)
「秀和システム」公式サイト
兼高さんは、1928年生まれで、現在88歳。
日本の高校を卒業後、ロサンゼルス市立大学に留学され、
帰国後は、トラベルライターとしてジャパンタイムスなどで活躍されます。
兼高さんといえば、1959年から1990年まで放送されたテレビ番組、
「兼高かおる 世界の旅」で、ご存知の方も多いことでしょう。
番組では、レポーター、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーと、
全て1人で務められ、その取材内容は多くの視聴者に親しまれてきました。
その兼高さんが、秀和システムから、作家の曽野綾子さんとの共著「わたくしたちの旅のかたち」を刊行されました。
兼高さんが海外取材から見たモノは何だったのか?
当時のエピソードを交えながら、振り返っていただきました。
──31年もの長寿番組「兼高かおる 世界の旅」
茂木:兼高さんといえば、テレビ番組「兼高かおる 世界の旅」、1959年から31年間放送されたんですね。素晴らしい番組でしたね。
兼高:ありがとうございます。わが青春を全部かけました。
茂木:一年のうち、ほとんど海外に行かれてたんですか?
兼高:ほとんどではなく半分くらいですね。
茂木:何カ国くらい行ったことになるんですか?
兼高:始めた頃は国の数は9、10くらいだったんです。終わった頃は100近くでしたね。
茂木:当時は日本人がまだ自由に海外に行けない頃じゃないですか?
兼高:日本にまだお金がなかったから、お金を銀行から買う、それの許可が小さかったんです。
重要なお仕事がある方には、1日17ドルくらいの許可が出たんです。
茂木:外貨が貴重な時代だったんですね。兼高さん自身はアメリカに留学されていたわけですもんね。
あの番組は、どのように始まったんですか?
兼高:あの頃、日本人は外国に遊びでは行くチャンスもなかったんですね。
そこに、パンアメリカン航空という、アメリカの航空会社。当時は世界一と言ってました。
そのミスター・ジョーンズという方が、「日本は資源のない国だけど日本そのものが観光客を呼べる。これが今後の日本のためになる」ということで、私をテストしたんですね。私に九州を取材してらっしゃいと言って、九州を1ヶ月くらい見て、外人が来たときに楽しみがあるか見たんです。
茂木:なるほど。
兼高:食べ物も美味しいものは沢山あります。外人に食べられないものはほとんどないんですよ。
問題は、外国人が慣れないものがいくつかありました。当時はホテルじゃなくて、宿屋が多かったんですよ。
我々にとって、何でもないことがいっぱい浮き上がってきて、その報告を彼に出しました。
彼が私を見たのは、どれくらい能力があるのかを見たので。
九州そのものに観光客が喜ぶような場所をテストしたのか、私をテストしたのかという両方なんですね。
それが始まりだったんです。
茂木:そこから始まったんですね。
兼高:そういう事もいろいろ重なり合って、パンアメリカンが協賛して番組ができたんです。
茂木:始まったときは31年も続くと思われてました?
兼高:全然思わなかったですね。
でも、経済界の人っていうのは先を見る人が多いですね。番組を始めたときに、商工会議所の人が「日本の未来は、海外と結びまわらないといけない」とおっしゃっていて。ですから、こちらはトラベルとむすびつける、経済界の人は商業でむすびつける、ということで一致しまして、けっこう皆さんに見ていただきました。
茂木:本当に大人気番組だったので、街で「兼高さんだ」と言われたりとかしました?
兼高:そうなんです。私は写真を撮られることが大嫌いなんですね(笑)。
人に知られるというのが嫌なんですよ、「兼高さん」と言われると、つい「はい」なんてうっかり返事をしちゃったり。
それくらい知られた番組になったんですね。
──日本の女性とは
茂木:兼高さんは、秀和システムから、作家の曽野綾子さんとの共著「わたくしたちの旅のかたち」を刊行されました。
対談形式なので非常に読みやすいんですけど、曽野さんとお話になっていかがでしたか?
兼高:豊富でいらっしゃるのと、共通点はアフリカによく言ってることですね。
私の方は庶民的ですね(笑)。
茂木:兼高さんはお嬢様というイメージがありますが(笑)。
兼高:うちの者が聞いたら、お腹抱えて笑いますよ。
茂木:女性として、なんであんな素敵な女性に生きてこられたのか秘密はあるんですか?
兼高:地のままが出てるだけです。聞かん坊でお転婆で…そういうのが将来があるんですよ(笑)。
茂木:女性として、おしとやかさもあるし、一方で茶目っ気がありますよね。
兼高:二役も、三役もできなきゃ日本の女じゃない。私は木に登る猿でもあるけども、お客様が来た時は、ちゃんと障子も唐紙も座って開けます。
茂木:基本ができてないといけないんですね。
兼高:そうですね。女の子は日本の礼儀を仕込まれましたからね。
日本の礼儀は女を綺麗に見せます、それが、外国で仕事をするときも指先も綺麗に使えます。
茂木:先ほどから、仕草もエレガントなんですよね。
兼高:お茶を飲むときも、片手ではなく両手を使います。両手を使うことで相手に興味をそそるんですよ。
茂木:いま、グローバル人材ということをよく言われるんですけど
当時から兼高さんは、世界的に交友関係もおありになって、活躍されている一方で日本女性としての礼儀とか嗜みっていうのは?
兼高:日本の女としては宝なんです。日本人にしろ、アジアの女の人って顔も形も似てますよね。
どこで差をつけるかと言うと、日常のマナーなんですよ。
茂木:そう考えますと、いま日本女性も海外で活躍しなくちゃいけない時代ですけど。
その時に持っておく心構えを、あの番組を通して教えてくださっていたような気がしますね。
兼高:教えるっていうことは本当に難しいですね。
勉強だけじゃなくて、日本古来からの礼儀を身に付けておいた方が、世界のどこに行ってもアイデンティティになりますよね。
きちんと綺麗に学ぶ、女のマナーを守ってもらいたいですね。
●「わたくしたちの旅のかたち」
兼高かおる, 曽野綾子
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「秀和システム」公式サイト