2016年12月25日
今夜お迎えしたのは、東京大学教授で社会学者の吉見俊哉さんです。
吉見さんは東京都の出身、1976年に、現在の筑波大学附属高等学校を卒業後、東京大学教養学部に入学。
卒業後、東京大学大学院の社会学研究科で学びます。
その後、東京大学新聞研究所助手、助教授、東京大学社会情報研究所教授を経て、
2004年より東京大学大学院情報学環教授に。
また、2011年より東京大学副学長を兼任されていらっしゃいます。
演劇論的なアプローチを基礎に、日本におけるカルチュラル・スタディーズ(文化社会学)の中心的な存在として、
先駆的な役割を果たしてきた方です。
今日は、吉見俊哉先生をお迎えして、お話を伺いました。
──2020年に向けた構想
茂木:2020年の東京オリンピックに向けて、文化プログラムを考えていく上で、どういうアプローチが良いかを伺いたいのですが?
吉見:東京文化資源区という構想を進めています。東京文化資源区はどこかと言うと、本郷もあるんですけど、隣に上野がありますよね。
少し北に谷中、根津、千駄木という地区があります。、伝統的な生活文化が残っている地域です。
茂木:そうですね。
吉見:上野から南に行くと湯島があります、湯島よりさらに南に行くと神保町、近くに秋葉原があります。
この全ての地域が半径2キロの中におさまっているんです。
この地域をつなぐと、江戸以来の東京の文化的遺産とか、神保町の出版文化、秋葉原のアニメ・ゲーム、湯島のお寺や神社、東京大学と上野の博物館、谷中の生活文化…全部があるんですね。
これを一つでつないでしまって、新しい東京のコアにしていこうという計画で。これを、2020年に向けて少しずつ積み上げていこうと。
茂木:なるほど!
吉見:なぜオリンピックと関係あるのかと思うかもしれませんが、2020年のオリンピックに関しては、いろいろな問題が発生してきたと思います。
新国立競技場の問題、エンブレムの問題、いま建設の予算が問題になっています。
決まった時は、東北の震災復興と東京のオリンピックを一体にしてやっていこうと盛り上がったけど、全然そうなってないじゃないですか。
茂木:そうなんですね。
吉見:何が問題かと言うと、1964年の時のオリンピックの価値から脱却できてないんですよ。つまり、1964年の成功体験を引きずりすぎているのが一番の原因です。
茂木:では1964年のオリンピックの価値観はどういうものなんですか?
吉見:1964年は日本が高度経済成長のとき、右肩上がりに伸びていく時期です。
高度経済成長と一体のものとしてオリンピックもやられましたが、当時のスローガンは、「より速く、より高く、より強く成長する」がテーマだったんです。
でも、2020年の日本は違いますよね。成長していこうっていう時代じゃなくて、世の中は成熟社会に変わっていると言いますか…自分たちの生活を豊かにしていこうという時代に変わっていると思うんですね。
そうすると、この時代のオリンピックはどうあらなければいけないかというと……
”より楽しく”、これは生活のクオリティ、質の問題だと思います。
”よりしなやか”に、レジリエンスという英語がありますよね。世の中変化が早くて変わっていっても、しなやかに対応しながら自分たちの価値を失わない。
もっと大事なのは、”より末長く”ということだと思います。末長くというのは、サステナビリティ、持続可能性と訳されますが。
私たちはどんどん発展し成長する社会というよりは、生活の質とか、しなやかさとか、多様性とか、そういう価値を守りながら末長く継続していく、そういう社会に向けてのイベントであったり、都市を作ることであったりしなくちゃいけないんですね。
茂木:そのような時代の変化の中で、先生が仰った東京文化資源区構想というのが重要な役割を果たすと?
吉見:そうですね。文化資源区が目指しているものは、ずっと僕たちは持っている、都市の中にあるんだけど、忘れかけている価値を再発見する。
1964年のオリンピックの後、青山通りや首都高速道路、地下鉄、スピードの速い交通手段が広がっていきました。代々木のオリンピック競技場にしても、それ以外の大規模な施設にしても、東京の南とか西の方に作られていったんですね。
そうすると、東京の文化の中心って前のオリンピック以降、北や東の方から、南や西の方に移っていったと思うんですよ。
茂木:そういうことなんですね。
吉見:本当の東京の価値が、幕末以降、数百年に渡ってあったのは、上野や浅草や神田そういう地域だったと思うんですよ。
そういう地域が持っている価値を、再評価して蘇らせることが21世紀だからこそできるんじゃないかと、そんなことを考えているんです。
──多文化的な都市だった江戸
茂木:オリンピックというと、世界中の方がいらっしゃるわけですけど。先生が仰っている地域は、日本の歴史の中で国際交流とかそういう視点から見ても特徴があるんですね。
吉見:江戸時代は鎖国していましたが、参覲交代がありましたから。例えば津軽とか、薩摩、長州、加賀、全国のいろんな違う文化が江戸に集まって交流していたんですね。
江戸はコスモポリタンな、多文化的な都市だったと思います。なおかつ、明治になると神保町なんて典型的ですけど、数万の中国人留学生が神保町の周りにいたんですよ。
茂木:当時から、なんですね。
吉見:当時から、学生や知識人のチャイナタウンみたいなところが神保町の周りにあって。例えば魯迅にしても、周恩来にしても、孫文にしても、あの辺で留学生していた。
そして、いま「中華人民共和国」と言いますよね?人民とか、国民とか、現代中国を作っていく基本的な考え方っていうのは、西洋の言語から翻訳されて日本語になって、日本語の考え方が中国に広がっていく…こういう経路を辿っていくから、近代中国を作る元のベースが神保町にあったっていうのは、あると思うんですね。
茂木:そうだったんですか。
吉見:この地域というのは江戸幕府と関係が深かったですから。幕末に彰義隊が上野に立てこもりますよね?彰義隊が負けて、会津に行きます。で、函館まで行くんです。江戸の文化が北にのぼっていく出口でもあり。近代が進むと、東北の人や北陸の人たち、北の方からいろんな人達が東京に入ってくる入り口でもあった地域だと思います。
特に上野は、博覧会をいっぱいやっていましたから、ものすごく華やかで、大イベント空間だったんですよ。そういう風な、東京の華やかなこの地域の記憶を、もう一回蘇らることの方が、海外に対してものすごくインパクトのある場所になるんじゃないかと思います。
●「吉見俊哉研究室ホームページ」
来週のゲストも引き続き、東京大学教授 社会学者の吉見俊哉さんをお迎えしてお話をうかがっていきます。
どうぞお楽しみに。
吉見さんは東京都の出身、1976年に、現在の筑波大学附属高等学校を卒業後、東京大学教養学部に入学。
卒業後、東京大学大学院の社会学研究科で学びます。
その後、東京大学新聞研究所助手、助教授、東京大学社会情報研究所教授を経て、
2004年より東京大学大学院情報学環教授に。
また、2011年より東京大学副学長を兼任されていらっしゃいます。
演劇論的なアプローチを基礎に、日本におけるカルチュラル・スタディーズ(文化社会学)の中心的な存在として、
先駆的な役割を果たしてきた方です。
今日は、吉見俊哉先生をお迎えして、お話を伺いました。
──2020年に向けた構想
茂木:2020年の東京オリンピックに向けて、文化プログラムを考えていく上で、どういうアプローチが良いかを伺いたいのですが?
吉見:東京文化資源区という構想を進めています。東京文化資源区はどこかと言うと、本郷もあるんですけど、隣に上野がありますよね。
少し北に谷中、根津、千駄木という地区があります。、伝統的な生活文化が残っている地域です。
茂木:そうですね。
吉見:上野から南に行くと湯島があります、湯島よりさらに南に行くと神保町、近くに秋葉原があります。
この全ての地域が半径2キロの中におさまっているんです。
この地域をつなぐと、江戸以来の東京の文化的遺産とか、神保町の出版文化、秋葉原のアニメ・ゲーム、湯島のお寺や神社、東京大学と上野の博物館、谷中の生活文化…全部があるんですね。
これを一つでつないでしまって、新しい東京のコアにしていこうという計画で。これを、2020年に向けて少しずつ積み上げていこうと。
茂木:なるほど!
吉見:なぜオリンピックと関係あるのかと思うかもしれませんが、2020年のオリンピックに関しては、いろいろな問題が発生してきたと思います。
新国立競技場の問題、エンブレムの問題、いま建設の予算が問題になっています。
決まった時は、東北の震災復興と東京のオリンピックを一体にしてやっていこうと盛り上がったけど、全然そうなってないじゃないですか。
茂木:そうなんですね。
吉見:何が問題かと言うと、1964年の時のオリンピックの価値から脱却できてないんですよ。つまり、1964年の成功体験を引きずりすぎているのが一番の原因です。
茂木:では1964年のオリンピックの価値観はどういうものなんですか?
吉見:1964年は日本が高度経済成長のとき、右肩上がりに伸びていく時期です。
高度経済成長と一体のものとしてオリンピックもやられましたが、当時のスローガンは、「より速く、より高く、より強く成長する」がテーマだったんです。
でも、2020年の日本は違いますよね。成長していこうっていう時代じゃなくて、世の中は成熟社会に変わっていると言いますか…自分たちの生活を豊かにしていこうという時代に変わっていると思うんですね。
そうすると、この時代のオリンピックはどうあらなければいけないかというと……
”より楽しく”、これは生活のクオリティ、質の問題だと思います。
”よりしなやか”に、レジリエンスという英語がありますよね。世の中変化が早くて変わっていっても、しなやかに対応しながら自分たちの価値を失わない。
もっと大事なのは、”より末長く”ということだと思います。末長くというのは、サステナビリティ、持続可能性と訳されますが。
私たちはどんどん発展し成長する社会というよりは、生活の質とか、しなやかさとか、多様性とか、そういう価値を守りながら末長く継続していく、そういう社会に向けてのイベントであったり、都市を作ることであったりしなくちゃいけないんですね。
茂木:そのような時代の変化の中で、先生が仰った東京文化資源区構想というのが重要な役割を果たすと?
吉見:そうですね。文化資源区が目指しているものは、ずっと僕たちは持っている、都市の中にあるんだけど、忘れかけている価値を再発見する。
1964年のオリンピックの後、青山通りや首都高速道路、地下鉄、スピードの速い交通手段が広がっていきました。代々木のオリンピック競技場にしても、それ以外の大規模な施設にしても、東京の南とか西の方に作られていったんですね。
そうすると、東京の文化の中心って前のオリンピック以降、北や東の方から、南や西の方に移っていったと思うんですよ。
茂木:そういうことなんですね。
吉見:本当の東京の価値が、幕末以降、数百年に渡ってあったのは、上野や浅草や神田そういう地域だったと思うんですよ。
そういう地域が持っている価値を、再評価して蘇らせることが21世紀だからこそできるんじゃないかと、そんなことを考えているんです。
──多文化的な都市だった江戸
茂木:オリンピックというと、世界中の方がいらっしゃるわけですけど。先生が仰っている地域は、日本の歴史の中で国際交流とかそういう視点から見ても特徴があるんですね。
吉見:江戸時代は鎖国していましたが、参覲交代がありましたから。例えば津軽とか、薩摩、長州、加賀、全国のいろんな違う文化が江戸に集まって交流していたんですね。
江戸はコスモポリタンな、多文化的な都市だったと思います。なおかつ、明治になると神保町なんて典型的ですけど、数万の中国人留学生が神保町の周りにいたんですよ。
茂木:当時から、なんですね。
吉見:当時から、学生や知識人のチャイナタウンみたいなところが神保町の周りにあって。例えば魯迅にしても、周恩来にしても、孫文にしても、あの辺で留学生していた。
そして、いま「中華人民共和国」と言いますよね?人民とか、国民とか、現代中国を作っていく基本的な考え方っていうのは、西洋の言語から翻訳されて日本語になって、日本語の考え方が中国に広がっていく…こういう経路を辿っていくから、近代中国を作る元のベースが神保町にあったっていうのは、あると思うんですね。
茂木:そうだったんですか。
吉見:この地域というのは江戸幕府と関係が深かったですから。幕末に彰義隊が上野に立てこもりますよね?彰義隊が負けて、会津に行きます。で、函館まで行くんです。江戸の文化が北にのぼっていく出口でもあり。近代が進むと、東北の人や北陸の人たち、北の方からいろんな人達が東京に入ってくる入り口でもあった地域だと思います。
特に上野は、博覧会をいっぱいやっていましたから、ものすごく華やかで、大イベント空間だったんですよ。そういう風な、東京の華やかなこの地域の記憶を、もう一回蘇らることの方が、海外に対してものすごくインパクトのある場所になるんじゃないかと思います。
●「吉見俊哉研究室ホームページ」
来週のゲストも引き続き、東京大学教授 社会学者の吉見俊哉さんをお迎えしてお話をうかがっていきます。
どうぞお楽しみに。