2016年11月20日
今夜お迎えしたのは、先週に引き続き、シンガーソングライターの遊佐未森さんです。
遊佐さんは、宮城県 仙台市のご出身。
1988年に、アルバム『瞳水晶』でデビュー。
“癒しブーム”の先駆け的存在として、「聴いて幸せになれる音楽」をテーマに、
物語性のある音楽を、発表し続けています。
徹底してオリジナリティーある作品にこだわり続け、デビューから20年以上を経た今も、
多くのファンやメディアから、高い評価を得ていらっしゃいます。
今夜は、遊佐さんがシンガーソングライターになるまでの道のりについて伺いました。
──家には音楽があふれていた
茂木:小さな頃からピアノを弾いて歌って、即興で楽曲を作っていたということですがご両親が音楽好きだったんですか?
遊佐:プロフェッショナルというわけではないですけど、ママさんコーラスに行ってたり父も歌うのが好きでした。音楽はいつもあふれていました。
茂木:そこから音大に行かれたわけですけど、音大はどういう学科だったんですか?
遊佐:国立音大の教育音楽科って言うんですけど、リトミックとか音を聴いて体で表現する、そんなのを勉強する学科ですね。
茂木:そんな中で遊佐さんがメジャーデビューするのはどういうタイミングですか?
遊佐:大学を出て24歳でデビューしたんですよ。
茂木:どういうきっかけだったんですか?
遊佐:大学生の時に事務所の社長さんとか、レコード会社の担当の方とかには何か人を通じて会っちゃったんですよね。
それが大学4年で、そこから2年くらいはずっとデモテープを作っていたんですよ。
茂木:デビューする時って、プロデューサーの方と”こういう路線でいこう”とか話すと思うんですけど、どういう形だったんですか?
遊佐:私の場合は、好きなものを聞いてくださって、なるべくそこに沿うような、その中で広げてくれるような世界観っていうのを、時間をかけて作ってもらったのでラッキーでしたね。
茂木:じゃあ最初から作家性が表現できていたということですね。
遊佐:最初の頃は書いてもらっている曲が多かったんですよ。
作家の方とも、すごく時間をかけていろんな話をしたし、その時出ていた新人の中ではゆっくり準備させてもらったんだろうなって思います。
──癒しの声
茂木:遊佐さんって、伺っていると順調に来たように見えるんですけど苦しい時期はあったんですか?
遊佐:デビューして1年目は”わー”っと言ってる間に、1年が過ぎちゃったみたいな感じで忙しくて。
茂木:スケジュール的にはきつかったですか?
遊佐:1日も休みはなかったですね。それで、毎日新しい方にお会いするから、”名前覚えなきゃとか、間違えちゃいけない”とか、緊張の連続でしたね。
茂木:そうなんですね。
遊佐:その中でレコーディングが入っているし、当時はPVを毎回作っていたので、それも入っていて。
コンサートツアーやって…というと、すぐに1年経っちゃって。
茂木:その年はかなり大変でしたね。
遊佐:そうですね。スタジオ入ると夜中まで音楽を聴いているので、ちょっと音楽を聴くのが辛くなった時期もありましたね。
そういう時に、必ず光がさして、2〜3年した頃にディレクターさんから、「ミニアルバム作るから、何かやりたいこと言って」と言われて。3つくらい言ったんですけど、その中の一つが、アイリッシュのナイトノイズというバンドと1枚やってみたいと言ったら実現したんですよ。
茂木:なるほど。
遊佐:彼らは当時ポートランドに住んでいて、そこに1ヶ月くらい行ってレコーディングしたんですけど、それが自分にとってターニングポイントというか…そこで救われて。自分のペースでやる意味とか、大事さみたいなものを彼らから受け取って。
ケルトの人たちって、音楽が指先からあふれてくるようなところがあって。
そんな感じで、私も呼吸するみたいに歌っていたし、そういうことをもう一回味あわせてもらいました。
茂木:そこでは、音楽的に新しい世界を掴んだというか。
遊佐:そうですね。彼ら4人グループで、フィドルとフルート、ギターとピアノだったので。
リハーサルも泊まっていたホテルの宴会場でやったんですよ(笑)。生楽器できるから、マイクなしで歌って。
茂木:いまのお話を伺っていて、今回のニューアルバム『せせらぎ』も、ワールドミュージック的な聴こえ方がするというか…ペースとか作り方とか…。
遊佐:たぶん「tico moon」と一緒にやっている感じも近いんだと思うんですよね。
茂木:そういう意味でいうと、世界のどこで聴いても…ニュージーランドあたりで聴きたいですね(笑)。なんとなく、いま思っちゃいました。
●「遊佐未森 オフィシャルウェブサイト」
●遊佐未森 アルバム「せせらぎ」
来週のゲストはジャーナリストの工藤律子さんをお迎えして、お話をうかがっていきます。
どうぞお楽しみに。
遊佐さんは、宮城県 仙台市のご出身。
1988年に、アルバム『瞳水晶』でデビュー。
“癒しブーム”の先駆け的存在として、「聴いて幸せになれる音楽」をテーマに、
物語性のある音楽を、発表し続けています。
徹底してオリジナリティーある作品にこだわり続け、デビューから20年以上を経た今も、
多くのファンやメディアから、高い評価を得ていらっしゃいます。
今夜は、遊佐さんがシンガーソングライターになるまでの道のりについて伺いました。
──家には音楽があふれていた
茂木:小さな頃からピアノを弾いて歌って、即興で楽曲を作っていたということですがご両親が音楽好きだったんですか?
遊佐:プロフェッショナルというわけではないですけど、ママさんコーラスに行ってたり父も歌うのが好きでした。音楽はいつもあふれていました。
茂木:そこから音大に行かれたわけですけど、音大はどういう学科だったんですか?
遊佐:国立音大の教育音楽科って言うんですけど、リトミックとか音を聴いて体で表現する、そんなのを勉強する学科ですね。
茂木:そんな中で遊佐さんがメジャーデビューするのはどういうタイミングですか?
遊佐:大学を出て24歳でデビューしたんですよ。
茂木:どういうきっかけだったんですか?
遊佐:大学生の時に事務所の社長さんとか、レコード会社の担当の方とかには何か人を通じて会っちゃったんですよね。
それが大学4年で、そこから2年くらいはずっとデモテープを作っていたんですよ。
茂木:デビューする時って、プロデューサーの方と”こういう路線でいこう”とか話すと思うんですけど、どういう形だったんですか?
遊佐:私の場合は、好きなものを聞いてくださって、なるべくそこに沿うような、その中で広げてくれるような世界観っていうのを、時間をかけて作ってもらったのでラッキーでしたね。
茂木:じゃあ最初から作家性が表現できていたということですね。
遊佐:最初の頃は書いてもらっている曲が多かったんですよ。
作家の方とも、すごく時間をかけていろんな話をしたし、その時出ていた新人の中ではゆっくり準備させてもらったんだろうなって思います。
──癒しの声
茂木:遊佐さんって、伺っていると順調に来たように見えるんですけど苦しい時期はあったんですか?
遊佐:デビューして1年目は”わー”っと言ってる間に、1年が過ぎちゃったみたいな感じで忙しくて。
茂木:スケジュール的にはきつかったですか?
遊佐:1日も休みはなかったですね。それで、毎日新しい方にお会いするから、”名前覚えなきゃとか、間違えちゃいけない”とか、緊張の連続でしたね。
茂木:そうなんですね。
遊佐:その中でレコーディングが入っているし、当時はPVを毎回作っていたので、それも入っていて。
コンサートツアーやって…というと、すぐに1年経っちゃって。
茂木:その年はかなり大変でしたね。
遊佐:そうですね。スタジオ入ると夜中まで音楽を聴いているので、ちょっと音楽を聴くのが辛くなった時期もありましたね。
そういう時に、必ず光がさして、2〜3年した頃にディレクターさんから、「ミニアルバム作るから、何かやりたいこと言って」と言われて。3つくらい言ったんですけど、その中の一つが、アイリッシュのナイトノイズというバンドと1枚やってみたいと言ったら実現したんですよ。
茂木:なるほど。
遊佐:彼らは当時ポートランドに住んでいて、そこに1ヶ月くらい行ってレコーディングしたんですけど、それが自分にとってターニングポイントというか…そこで救われて。自分のペースでやる意味とか、大事さみたいなものを彼らから受け取って。
ケルトの人たちって、音楽が指先からあふれてくるようなところがあって。
そんな感じで、私も呼吸するみたいに歌っていたし、そういうことをもう一回味あわせてもらいました。
茂木:そこでは、音楽的に新しい世界を掴んだというか。
遊佐:そうですね。彼ら4人グループで、フィドルとフルート、ギターとピアノだったので。
リハーサルも泊まっていたホテルの宴会場でやったんですよ(笑)。生楽器できるから、マイクなしで歌って。
茂木:いまのお話を伺っていて、今回のニューアルバム『せせらぎ』も、ワールドミュージック的な聴こえ方がするというか…ペースとか作り方とか…。
遊佐:たぶん「tico moon」と一緒にやっている感じも近いんだと思うんですよね。
茂木:そういう意味でいうと、世界のどこで聴いても…ニュージーランドあたりで聴きたいですね(笑)。なんとなく、いま思っちゃいました。
●「遊佐未森 オフィシャルウェブサイト」
●遊佐未森 アルバム「せせらぎ」
来週のゲストはジャーナリストの工藤律子さんをお迎えして、お話をうかがっていきます。
どうぞお楽しみに。