2016年09月18日
今夜は、日本を代表するトップドラマー、沼澤尚さんをお迎えしました。
沼澤さんは、東京生まれ。
大学卒業と同時にLAの音楽学校に留学し、ジョー・ポーカロやラルフ・ハンフリーらに師事。
LAを拠点にプロとして音楽活動を始められます。
88年以後は日本での活動も増え、現在は東京を拠点に、さまざまなミュージシャンのライブやレコーディングに
参加されていらっしゃいます。
その沼澤さんを中心に日米の有名ミュージシャン7人が集う、
日米合体のバンド、NOTHING BUT THE FUNKが、およそ3年ぶりに再結成され、公演をスタートさせます。
今夜は、プロのドラマーになるまでのお話、メンバーとの出会いなどを伺いました。
──無類の音楽ファン
茂木:大学を卒業されたあとに、LAに行かれたんですか?
沼澤:そうです。僕は日本でまったく音楽をやっていなかったので。
茂木:どの時点で音楽をやろうと思ったんですか?
沼澤:そもそもは、両親がスーパーアスリートカップルだったので僕もスポーツしかやってなかったんですよ。
自分も、当然プロ野球選手になるって思ってましたね。
茂木:じゃあ、大学でも野球を?
沼澤:やってたんだけど、その時の監督が嫌でやめて…友達がみんなラグビー部にいたのでそっちに行って、スポーツしかやっていなかったですね。
茂木:ということは、音楽は?
沼澤:小学校の頃から音楽が好きで、”レコードを買ってはライブを見に行く”っていう、普通の音楽ファンですよ。
茂木:卒業されてアメリカに行かれたんですか?
沼澤:アメリカに住みたいと思ってたんですよ。みんなと同じことを、同じ風にするのが不思議に思っていて。
アメリカに住むっていうチャンスと、英語を喋れるようになったら帰ってこようと思って、音楽が好きだったから音楽学校とかいいかもって(笑)。
茂木:そういうノリだったんですか(笑)。
沼澤:野球やるつもりだったから、それがダメになった時に、”じゃあ、弁護士になろうかな”っていうわけでもないし。やりたいこととかがなかったんですよ。
茂木:アメリカの学校はどうやって?
沼澤:友達づてに聞いて、パンフレットを見たんですよ。”ミュージシャンが誰で、誰がプロデュースして、エンジニアは誰”っていう、レコードのクレジットを見るのが好きだったんですよ。
茂木:そういう見方をしていたんですね。
沼澤:パンフレットを見たときに、自分の大好きな人がドラムの学校の先生だったんですよ。
それを見て、その頃、英語のパンフレットを見たりするとワクワクするような。1980年くらい、インターネットもファックスもない時代だったので、それが手に入って見てるだけが楽しみみたいな。
ミュージシャンになると思っていなかったので、大学生で何もやってない人がなれるはずもないじゃないですか。
茂木:普通は思いますよね。
沼澤:別にドラマーになれると思ってなくて、アメリカに行ってみたいなと思って。
テープのオーディションがあったりするんですよ。
茂木:あるんだ!何を送ったんですか?
沼澤:いろんな譜面とか書いてあって、”あれをやりなさい、これをやりなさい”ってドラムのことが書いてあるんですけど、そんんなこと知らないので、まず紀伊国屋に行って、これはどういう意味だろう?というところから始まって。
やっていて、これ、自分がやらなくても、誰かにやってもらっても分かんないよなって思ったんですよね(笑)。
茂木:ちなみに、ドラムはあったんですか?
沼澤:持ってないですね。学校の近くの貸しスタジオに行って、ちょっと練習してみたいな。
でも、心得って言ったらおかしいんですけど、やってなかったけど僕はドラマーが好きだったんですよ。
茂木:でも、合格したんですよね。
沼澤:”え?合格?”みたいな(笑)。
学生ビザを取るときに、「英語が喋れる、喋れない」みたいなことが書いてあったんですけど、「なし!」って書いて(笑)。
理由に「Music is universal language」とか書いて、”これ、いこう!”みたいな感じで(笑)。
茂木:かっこいいですね(笑)。
沼澤:かっこよくないです、適当ですよ(笑)。
──アメリカに学ぶ
茂木:アメリカには何年いたんですか?
沼澤:17年間いましたね。
茂木:才能があったってことですよね。
沼澤:才能があったかどうかということに関しては、無いのは自分がよくわかってるんですけど。
偶然の積み重ねみたいなことがあって、それの連続でしたね。
茂木:今回、再結成されたバンドNOTHING BUT THE FUNKは、そもそも何なんでしょうか?
沼澤:アメリカに行って、帰ってこようと思ったけどなんとなく居て。
当時、1983年なんですけど、1984年はプリンスの「パープル・レイン」が出た年で、自分が20代の前半で仲間になった連中が、全員そのツアーに参加してる連中だったんですよ。
茂木:ええ!すごくないですか?
沼澤:みんな、僕と大体同じ年代で、パープル・レインのオープニングはシーラ・Eバンドでした。
シーラ・Eバンドが、レヴォリューションツアーの時に、そこにシーラ・Eバンドの連中がさらに参加メンバーで、二毛作みたいなことで世界ツアーをやっていたんですよ。
それが次のアルバム「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」「パレード」と、同じバンドが数年間やっていたんです。
茂木:そうなんですね。
沼澤:その時に僕は、チャカ・カーンとか、ボビー・ウーマックとか、違う黒人のアーティストのツアーをやれてたんですけど。彼らと仲良くて、その連中とバンドをやっていたんですよ。そのバンドは仲良くて、たまにスケジュールが合うときに、日本のビルボードとか、ブルーノートのツアーをやっているんですよ。
茂木:要するに、NOTHING BUT THE FUNKって、すごいバンドってことじゃないですか!
沼澤:1人1人のキャリアを見たら、すごいですね(笑)。
●「沼澤尚 Official HomePage」
※Nothing But The Funkの追加公演決定!
詳しくは、公式サイトをご覧ください。
「沼澤尚 Official HomePage」
「Nothing But The Funk Official HomePage」
「Nothing But The Funk Facebook」
「Nothing But The Funk Twitter」
来週も引き続き、ドラマーの沼澤尚さんをお迎えします。
どうぞお楽しみに。
沼澤さんは、東京生まれ。
大学卒業と同時にLAの音楽学校に留学し、ジョー・ポーカロやラルフ・ハンフリーらに師事。
LAを拠点にプロとして音楽活動を始められます。
88年以後は日本での活動も増え、現在は東京を拠点に、さまざまなミュージシャンのライブやレコーディングに
参加されていらっしゃいます。
その沼澤さんを中心に日米の有名ミュージシャン7人が集う、
日米合体のバンド、NOTHING BUT THE FUNKが、およそ3年ぶりに再結成され、公演をスタートさせます。
今夜は、プロのドラマーになるまでのお話、メンバーとの出会いなどを伺いました。
──無類の音楽ファン
茂木:大学を卒業されたあとに、LAに行かれたんですか?
沼澤:そうです。僕は日本でまったく音楽をやっていなかったので。
茂木:どの時点で音楽をやろうと思ったんですか?
沼澤:そもそもは、両親がスーパーアスリートカップルだったので僕もスポーツしかやってなかったんですよ。
自分も、当然プロ野球選手になるって思ってましたね。
茂木:じゃあ、大学でも野球を?
沼澤:やってたんだけど、その時の監督が嫌でやめて…友達がみんなラグビー部にいたのでそっちに行って、スポーツしかやっていなかったですね。
茂木:ということは、音楽は?
沼澤:小学校の頃から音楽が好きで、”レコードを買ってはライブを見に行く”っていう、普通の音楽ファンですよ。
茂木:卒業されてアメリカに行かれたんですか?
沼澤:アメリカに住みたいと思ってたんですよ。みんなと同じことを、同じ風にするのが不思議に思っていて。
アメリカに住むっていうチャンスと、英語を喋れるようになったら帰ってこようと思って、音楽が好きだったから音楽学校とかいいかもって(笑)。
茂木:そういうノリだったんですか(笑)。
沼澤:野球やるつもりだったから、それがダメになった時に、”じゃあ、弁護士になろうかな”っていうわけでもないし。やりたいこととかがなかったんですよ。
茂木:アメリカの学校はどうやって?
沼澤:友達づてに聞いて、パンフレットを見たんですよ。”ミュージシャンが誰で、誰がプロデュースして、エンジニアは誰”っていう、レコードのクレジットを見るのが好きだったんですよ。
茂木:そういう見方をしていたんですね。
沼澤:パンフレットを見たときに、自分の大好きな人がドラムの学校の先生だったんですよ。
それを見て、その頃、英語のパンフレットを見たりするとワクワクするような。1980年くらい、インターネットもファックスもない時代だったので、それが手に入って見てるだけが楽しみみたいな。
ミュージシャンになると思っていなかったので、大学生で何もやってない人がなれるはずもないじゃないですか。
茂木:普通は思いますよね。
沼澤:別にドラマーになれると思ってなくて、アメリカに行ってみたいなと思って。
テープのオーディションがあったりするんですよ。
茂木:あるんだ!何を送ったんですか?
沼澤:いろんな譜面とか書いてあって、”あれをやりなさい、これをやりなさい”ってドラムのことが書いてあるんですけど、そんんなこと知らないので、まず紀伊国屋に行って、これはどういう意味だろう?というところから始まって。
やっていて、これ、自分がやらなくても、誰かにやってもらっても分かんないよなって思ったんですよね(笑)。
茂木:ちなみに、ドラムはあったんですか?
沼澤:持ってないですね。学校の近くの貸しスタジオに行って、ちょっと練習してみたいな。
でも、心得って言ったらおかしいんですけど、やってなかったけど僕はドラマーが好きだったんですよ。
茂木:でも、合格したんですよね。
沼澤:”え?合格?”みたいな(笑)。
学生ビザを取るときに、「英語が喋れる、喋れない」みたいなことが書いてあったんですけど、「なし!」って書いて(笑)。
理由に「Music is universal language」とか書いて、”これ、いこう!”みたいな感じで(笑)。
茂木:かっこいいですね(笑)。
沼澤:かっこよくないです、適当ですよ(笑)。
──アメリカに学ぶ
茂木:アメリカには何年いたんですか?
沼澤:17年間いましたね。
茂木:才能があったってことですよね。
沼澤:才能があったかどうかということに関しては、無いのは自分がよくわかってるんですけど。
偶然の積み重ねみたいなことがあって、それの連続でしたね。
茂木:今回、再結成されたバンドNOTHING BUT THE FUNKは、そもそも何なんでしょうか?
沼澤:アメリカに行って、帰ってこようと思ったけどなんとなく居て。
当時、1983年なんですけど、1984年はプリンスの「パープル・レイン」が出た年で、自分が20代の前半で仲間になった連中が、全員そのツアーに参加してる連中だったんですよ。
茂木:ええ!すごくないですか?
沼澤:みんな、僕と大体同じ年代で、パープル・レインのオープニングはシーラ・Eバンドでした。
シーラ・Eバンドが、レヴォリューションツアーの時に、そこにシーラ・Eバンドの連中がさらに参加メンバーで、二毛作みたいなことで世界ツアーをやっていたんですよ。
それが次のアルバム「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」「パレード」と、同じバンドが数年間やっていたんです。
茂木:そうなんですね。
沼澤:その時に僕は、チャカ・カーンとか、ボビー・ウーマックとか、違う黒人のアーティストのツアーをやれてたんですけど。彼らと仲良くて、その連中とバンドをやっていたんですよ。そのバンドは仲良くて、たまにスケジュールが合うときに、日本のビルボードとか、ブルーノートのツアーをやっているんですよ。
茂木:要するに、NOTHING BUT THE FUNKって、すごいバンドってことじゃないですか!
沼澤:1人1人のキャリアを見たら、すごいですね(笑)。
●「沼澤尚 Official HomePage」
※Nothing But The Funkの追加公演決定!
詳しくは、公式サイトをご覧ください。
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来週も引き続き、ドラマーの沼澤尚さんをお迎えします。
どうぞお楽しみに。