• mixi
  • Facebook
  • ツイッター
  • Google
  • TOKYO FM
  • TOYOTA
Home>Legend Story
Legend Story
15.01.31
長野五輪ジャンプ団体


1998年長野オリンピック。
スキージャンプ日本団体チームは、誰がメンバーになっても勝てるという自信に溢れていた。
直前までのワールドカップでは、全17戦中、原田雅彦と船木和喜が4勝。
斉藤浩哉を含めた表彰台独占も2回あった。

だが、悲願の金メダル獲得に待ったをかけようとしたのは、会場となった白馬の天候だった。
朝から降り続く湿った雪で、競技は予定より30分遅れて始まった。
2番手・斉藤の130mジャンプで大きなリードを奪い、金メダルへ一歩前進したが、第3グループが飛び始めると、降雪が急激に強まった。
最終13番目の原田の時には、踏み切るポイントが見えないほどの降雪。
助走速度は直前のドイツの選手より1・7?も遅く、飛距離は79・5mに止まった。
そして4番手の船木も思ったように距離を伸ばせず、1回目のジャンプは4位に止まった。

小野学ヘッドコーチは、即座に第3グループのジャンプのやり直しを申し入れたが、受け入れられず、直ぐに2回目の競技が開始された。
降雪は再び激しくなり、第1グループの8人目が飛んだ後で競技は中断。
そのまま中止になる可能性があった。
1回目のジャンプだけで終われば日本は4位と、メダルを逃す。
そこで奮起した男達がいた。のちに日本に栄光と感動をもたらす、25人のテストジャンパーたちだ。

試合では必ず前走者として飛び、ジャンプ台の安全を確認する意味も持つ存在。
そこには、前回のリレハンメル大会団体銀メダルメンバーの西方仁也もいた。

「自分の中のオリンピック」に決着をつけるために、テストジャンパーを引き受けていた西方に心の中には、複雑な思いもあった。
だが、原田がメンバー入り出来なかった自分のアンダーウエアを着て、葛西の手袋をして戦っている姿を見て、気持ちが吹っ切れた。
「自分たちが転倒をせずに飛んで安全だと証明すれば、競技は続行になる」

助走路の溝に溜まった雪でバランスを崩し、着地でも積もった雪にスキーを取られて転倒することもある状況。
その中でテストジャンパー達は「溝に雪が積もらないうちにスタートしよう」という、西方の指示で次々に飛んだ。
そして最後に飛んだのは西方。飛距離は123m。
実はこの時、審判団は「出場選手と同等の技術を持つ西方が、K点を超えたら競技を続行しよう」と決めていた。
競技再開が決まった。

2回目が始まると、1番手の岡部が137mを飛んでトップに立った。
そして、3番手の原田も137mの大ジャンプでリレハンメルの汚名を返上。
最後の船木は、確実にK点を超えるジャンプで、日本は金メダルを獲得した。
日本ジャンプ界悲願の金メダルは、4人の選手だけではなく、25人のテストジャンパー達が支えた、金メダルでもあった。






Message

Circle of Friendsや藤木直人さん、高見侑里さんへのメッセージはこちらから。あなたのスポーツ体験と気分を盛り上げるためには欠かせないリクエスト曲をお待ちしています。