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Legend Story
14.10.11
ブレンダン・ハンセン

アテネオリンピックを1ヶ月後に控えた2004年7月8日。
ブレンダン・ハンセンが全米選手権の100m平泳ぎで59秒30の世界新記録を出したと電話連絡を受けた 競泳日本代表のコーチ平井伯昌の心は動揺した。
彼がいたのは、本番に備える高地合宿地だったスペインのグラナダ。北島康介はまだ絶不調だった。

2001年世界選手権の200mで優勝したハンセンは、北島が2冠を獲得した2003年世界選手権では100m2位で200mは3位。
100mも前半の50mは北島より少し速いだけの28秒48で入って1分00秒21。
平井は北島と同じタイプのスイマーと考えていた。
だが世界記録は前半を27秒93で入り、後半も失速せず北島の記録を0秒48も上回るもの。
腕力を活かして前半から突っ込むようになった泳ぎに驚異を感じた。
さらに3日後には200mでも2分09秒04と世界記録をマーク。脅威は増した。

だがアテネでは調子が落ちていた。ライバルが多い全米選手権で、初のオリンピック代表を勝ち取るためにピークを合わせたからだ。
結局100mは1分00秒08で泳いだ北島に0秒17遅れの2位。
気落ちした200mも15歳のダニエル・ジュルタに逆転されて3位に。
金メダルはメドレーリレーだけに終わった。

それでも翌年からは強さを取り戻した。世界選手権は2冠を獲得し、さらに翌年の全米選手権で100mの世界記録を59秒13に伸ばすと19日後のパンパシフィック選手権200mでは不調だった北島に2秒37差をつける2分08秒50の世界新で泳いで圧勝。北島を脱帽させた。

しかし北京オリンピックシーズンは不調に陥った。北島が6月のジャパンオープン200mで出した2分07秒51の世界記録に怯えたのか、全米選手権では200m4位で代表を逃した。
北京オリンピックでは代表になった100mでは4位。
オリンピック2大会連続2冠を果たした北島に、「ハンセンガいたからここまで強くなれた」と感謝されながらも、引き立て役という立場になってしまったのだ。

2009年からは休養をしたハンセンだが、屈辱を抱えたまま消え去るわけではなかった。
2012年に復帰するとロンドンオリンピックまで駒を進めた。
そして100mでは、前半6位と遅れながらも後半で失速した北島などを交わし、59秒49の3位で銅メダルを獲得したのだ。
レース後は異次元の泳ぎをしたキャメロン・バンデルバーグが歓喜するのを尻目に、隣のレーンの北島と長い戦いの健闘を讃えあっていた。


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