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Legend Story
18.08.04
蔦文也
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高校野球において名将と呼ばれる監督たち。
その一人として挙げられるのが、徳島県の池田高校の野球部を率い、「攻めダルマ」の異名をとった蔦文也。
甲子園通算37勝11敗、3度の優勝、2度の準優勝を果たした。

1923年、徳島市生まれ。
徳島商業学校で選手として甲子園に3度出場し、同志社大学を経て、1950年、プロ野球・東急フライヤーズに投手として入団。
しかし、わずか1年で退団、翌年、池田高校の教師になり、野球部の監督に就任した。

甲子園出場を目標に据え、部員たちを徹底的に鍛え上げたが、強豪校に阻まれ続け、初出場を決めたのは1971年の夏。
蔦が監督に就任してから20年の年月が経っていた。

池田高校が甲子園常連校となるきっかけとなったのが
その3年後に登場した金属バットの存在だった。
木製バットはボールを芯で捕えなければ遠くへ飛ばないが、金属バットは多少芯を外れても振り切れば、飛距離が延びる。

そこに目をつけた蔦は、筋力トレーニングをいち早く取り入れ、選手たちに金属バットをフルスイングさせた。
当時、高校野球といえば、送りバントやスクイズで、1点を確実にとりに行く細かい野球が主流だったが、蔦はそれを一新。
バントのサインは殆ど出さず、打ち勝つパワー野球で他のチームを圧倒した。

そんな蔦率いる池田高校は、1982年、夏の甲子園で快進撃を見せる。
準々決勝の早稲田実業戦では、荒木大輔を打ち崩し、14対2で快勝。
広島商業との決勝では1回表の攻撃で6点を先制し、その後も攻撃の手を緩めず12対2で圧勝した。
6試合で85安打、甲子園に自慢の“やまびこ打線”が鳴り響き、蔦はついに甲子園優勝を成し遂げた。
さらに、翌83年、86年のセンバツでも優勝を果たした蔦文也。
四国の山あいの小さな町から一躍全国に羽ばたき、甲子園で数々の名勝負を演出した蔦野球は、長き高校野球史の中で燦然と輝いている。

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