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Athelete News
20.08.01
なでしこジャパン W杯ドイツ大会優勝の裏側
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今週の「Athlete News」は、2011 FIFA女子ワールドカップ ドイツ大会で、なでしこジャパンを世界一に輝かれた名将、佐々木則夫さんをゲストにお迎えしました。

佐々木則夫さんは、1958年、山形県生まれ。
帝京高校から明治大学を経て大宮アルディージャの前進・電電関東サッカー部でプレー。
現役引退後、2007年、サッカー日本女子代表監督に就任。
2011年、女子ワールドカップドイツ大会では世界一に輝かれ、FIFA年間表彰式で、アジア人として初となる女子世界年間最優秀監督賞を受賞しました。
さらに2012年ロンドンオリンピック、2015年女子ワールドカップカナダ大会では準優勝と見事な手腕を発揮。
2016年、代表監督を退任され、現在は、来年9月に開幕する国内初の女子サッカープロリーグ「WE(ウィー)リーグ」の設立準備室長を努めていらっしゃいます。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今回はお電話をつないでお話を伺っていきました。



──この番組は2014年7月に始まったのですが、記念すべき第一回目のゲストが澤穂希さんだったんですよ。なでしこジャパンを語る上で欠かせない人物だと思うのですが、佐々木さんから見てどのような選手、人柄だったんですか?

そうですね。“神のような選手”じゃないですかね。もう本当に、“何か”を持っているんですよね。以前、決勝で同点ゴールを入れた時に、彼女が「天から神が降りてきたのが見えた」というようなことを言っていましたから、神がかり的な選手ですよね。

──チームの精神的な支柱でもあったのではないですか?

そうですね。彼女は多くを語らない、どちらかと言えば無言実行のリーダーですよね。
トレーニングの時も、自分が1番に来て黙々とウォーミングアップをし、そしてチームに合流する、というところもあります。澤選手が1番に来たら、若い選手が後からダラダラ来るなんてことはとんでもないですよね。無言の中で、時間前にしっかり来るとか行動で示してくれて、みんなを鼓舞して引っ張ってくれる選手でしたね。

──色々な意味で頼りになる選手だったわけですね。
佐々木さんの現役時代の話も伺いたいのですが、名門帝京高校でサッカー部のキャプテンとしてインターハイ優勝。そして明治大学に進まれて、後にサッカー日本代表の10番を背負うことになる木村和司さんと同期。この頃、既に指導者の道を考えてらっしゃったんですか?


そうですね。僕は(木村)和司のプレーを見た時に、“こいつは日本代表としてプロとして生きる術を持った選手で、やはり技術的な要素やプレイヤーとしては、僕はこういったレベルにまで達せないな”と。“それよりも僕は指導者としての道の方が良いな”という風に切り替わる、大きな起点になる選手でしたね。

──それくらい木村和司さんのプレー、技術というのは…。

(木村)和司のプレーは本当に器用で、実践するプレーの次元が僕なんかとは違っていましたね。タイプが異なる選手が並んだ中なら良いと思うんですけど、それでも(木村)和司の技術とか、考えていることというのは、やっぱり違っていましたね。

──大学を卒業される時には、まだJリーグは誕生していなかったですよね。1991年33歳で現役を引退されて、最初は大宮の監督をされていたんですか?

最初は、大宮アルディージャというよりも、アマチュアのNTT関東(大宮アルディージャの前身)で初代の監督としてやっていました。

──そして、2006年に女子サッカーのコーチに。

うちの娘も小学校から女子サッカーをやっていまして、女の子のサッカーも第三者的に見てた経緯はありましたので。

──ー引き受ける際にお嬢様から背中を押されたとお聞きしたのですが?

娘が高校生の時にキャンプにお邪魔した時に、“僕の指導とか立ち振る舞いが選手達に人気があった”と。
本当に自分の素を出していたというかね。「あまり鎧を着ないで、パパらしいところをそのまま出していけばいいんじゃない」というアドバイスを頂きました(笑)。

──それもあって、“女子サッカーの世界に入っていみようかな?”と思ったわけですよね。当時の女子サッカーのレベルというのはどうだったんですか?

そうですね。“なんとかアジアの予選を突破できるかな”といったところと、世界大会には出てはいたんですけど、どちらかというと予選リーグで敗退というのが多かったと思いますね。

──そこのフィジカルの弱さを、戦略であったり選手の特徴で変えていくことによって、みごと2011年のFIFA女子ワールドカップで男女初の優勝ですからね。

あの決勝は、選手達があれだけ粘りながら本当に頑張ってプレーしてくれていたので、延長戦の時は、僕はコーチャーズ・ボックスで笑顔でしたからね。“この子たちはすごく頑張っているな、成長したな”っていう感じで。ですからPKになった時も、僕は悲痛ではなく笑顔で選手たちを迎えたんです。2011年東日本大震災で日本が大変な状況の中で、“選手たちがこんな素晴らしいゲームを日本に発信できた”という喜びでいっぱいだったんですよね。

PKで選手の順番を決める時に、澤さんも順番の4番手に入っていたんですけど、「私は蹴れない」って言ったんです。「じゃあ、さっき点を決めてくれたから代えてあげようよ」という感じで言ったら、みんなが「ずるーい」って言ってたんですよ。「ずるい!」じゃなくて了解の「ずるーい」だったんです。それで、本当は6番だった熊谷紗希選手を4番に持ってきたんですよね。

──勝負を決めた選手ですよね。熊谷紗希選手を4番に持ってきた理由はあるんですか?

熊谷紗希選手は、若いながらも度胸が座っていたので。それと、最後に「なんで私が4番になったのか?」と聞いてきたので、「君の背番号は何番?」って言ったんですよ。そしたら熊谷選手が「4です」って答えたので、「だからだよ」ということで。
「君が若くて勇気があって力があるからだよ」とは言わずに、それだけで終わっているのが、ちょっと反省しているんですけどね(笑)。

──終わった後はちゃんと言いましょうよ(笑)。本当に勢いがあったというか、神がかった優勝でしたよね。

そんな中で“フロック(まぐれ)かもしれない”なんてこともありましたけど、その後のロンドン・オリンピックでも銀メダル。その3年後のカナダ大会でも決勝まで行けたので。そういった意味で、あのチームはフロックではなく、実際に力をつけた中でできたチームだったんだなと感じてます。

──この番組では、毎回ゲストの方にcheer Up Songを伺っています。佐々木さんの心の支えになっている曲を教えてください。

大好きな自分のモチベーション・ソングなんですけど、カノンさんの「明日への鼓動」ですね。

──こちらはどのようなきっかけで聴くようになったのですか?

ちょうど北京オリンピックの時だったと思うんですけど、何かの応援ソングだったと思うんですが…。

──これは競泳ですね。競泳の、北京オリンピック代表決定戦のNHKのテーマソングでした。

そうだったんですね。その歌詞と歌が素敵で、それから僕のモチベーションソングになっています。


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