今週の「Athlete News」は、パラリンピック 陸上の日本代表、中西麻耶選手にお話を伺いました。
中西選手は、1985年生まれの32歳。元々は、ソフトテニスの選手でしたが、2006年、21歳の時に仕事中の事故がきっかけで右ひざから下を失いました。
障がい者陸上へ転向し、2008年の北京パラリンピック、 ロンドン、リオと三大会連続で出場されています。
去年のリオ大会では、走り幅跳びで4位入賞を果たしました。そして、先月、世界パラ陸上2017 ロンドン 女子走り幅跳びで見事、銅メダルを獲得しました。
自身のもつ記録5メートル51はアジア記録となっています。
──今回の世界パラ陸上は2012年ロンドンパラリンピックと同じ競技場ロンドンスタジアム。
ロンドンパラリンピックでは、8位という結果でした。
この時は、競技場が怖くなっていて、アップをする余裕もなく、食べては嘔吐を繰り返し、人に会うのが怖い、人に見られるのが怖い、人を信じるのが怖い。
ただひたすらに、恐怖と戦っていたと仰っていました
日本人で初めて海外に拠点を置いて、日本人女子 切断界で初めてプロ宣言をして、スポンサーを集めながら競技をしていくという人物になった時に、受け入れてもらえないことがたくさんありすぎて。
連盟としても海外に拠点を置いている選手に対してどう対応していけばいいのか分かっていなかったし、手探りの状態だし…。
私、1人だったので、私1人の為にルールを変えることもできない、当時は障害を持った人はアクティブに挑戦していくとか夢を追い求めて、ボロボロになりながら夢を掴むということが受け入れられていなかった時代だったんですよね。
でも、私は元々スポーツ選手で、ある日突然足を失ってしまうわけですけど。私の感覚の中では、足の切断はスポーツをしているうえでの一案件 でしかない感覚だったんですよ。
1人のアスリートとして復帰をして最大パフォーマンスをあげていくということに務めたかったんですけど、それがあまり受け入れられなかったところはあります。
──ロンドンパラリンピックまでの資金が無くなってしまった中西選手はアメリカに拠点を移した時に出会ったフローレンス・グリフィス=ジョイナーの夫、アルジョイナーから“お前はプロなんだから、スポンサーは自分で見つけろ!”とアドバイスをもらったそうです。
活動資金を得る為のスポンサー探しを試行錯誤で行う中、セミヌードカレンダーを発売。
これで、ロンドンまでの資金を賄えることになるんですが、日本国内ではバッシングが強く。一方、海外では中西さんの勇気に賞賛の声が大きかったと言います。
残念ながら、精神的に限界を迎え、ロンドンパラリンピック後、引退されますが、翌年の2013年に引退を撤回。
2016年リオデジャネイロパラリンピックを目指す事を決意されました
2012年に引退すると言って、2013年に世界選手権があったんですね。
その期間中に、 アメリカにいた時代のチームメイトから「あなたのいない世界大会はつまらないわ」と、唐突にメッセージがきて、その時に「実は引退したのよ」と言ったんですけど。
1人で異国の地に来て、友達も誰もいないところから、這いつくばりながらでも頑張ってる姿を彼女は見ていたので、そこまでして陸上に向き合えていたのに、こんな事で辞めるなんて許さない!と言ってくれたんですよね(笑)。
引退すると言って引き留めてくれる人は今までいなかったんですよ。それが余計に”私は期待されていない”と感じてしまったんです。
でも、彼女のメッセージで”世界に目を向ければ、まだ私の事を見てくれている人もいるんだ”と思わせてくれたし、期待してくれている人がいるのであれば、まだやれるパワーがあるかもしれないと思えたので、もう一回挑戦してみようかなと思いました。
──そして迎えたリオパラリンピックでは、5メートル42で4位入賞という結果でしたが
先月行われた世界パラ陸上で念願のメダルを獲得されました
5本目まで思ったような跳躍はできていなかったんです、走りはそんなに悪くないにも関わらず…、5メートルというのは、どんな条件でも練習の中ではクリアできるレベルの跳躍なんですよね。それが出ないっていうのが、今回は精神的なものだと分かっていたんですけど。
コーチからは「兎に角、俺を信じろ!」と言われていたのと、もっと細かい調整を受けて、自分も踏切を全体的に前にしたんですよね。
最後、追い詰められた状況の中で助走距離を縮めるというのは恐怖心が伴うことなんですけど、その中でキッチリ決められたというのは今後の競技人生において、もの凄く大きな影響をもたらす勝利だったと思うんですよ。なので、思わずガッツポーズが出ましたね。
──さまざまな壁を乗り越えて、念願のメダルを得た中西麻耶選手。陸上競技から得たものとは何だったのでしょうか?
はっきりと言えるのは個性を得たと思います。足の無い自分が努力をして、跳躍することで 心を引かれる人は沢山いると思うし。
それまではテニスをしていましたけど、テニスをしているだけで個性があったのかなと思うと、なんとなく中西麻耶らしさって無かったと思うんですよ。
競技だけではなく、人生に対して、中西麻耶らしい人生の送り方を教えてくれたのが切断をするという出来事だったので。
私にとっては、この事故があったからこそ強くなれたし、色々な体験をしたけれども、足を失わなければこの人生は無かったと思っています。
──今回のインタビューは先月22日、中西選手の地元、大分県で行われた「スポーツ能力測定会」にお邪魔してお話を伺ってきました。
このスポーツ能力測定会は、子ども達が自分の特性に合ったスポーツに出会える様、アドバイスを行うことが目的で、当日は中西麻耶選手のほか、柔道・篠原信一さんが参加。
今回は障がい者向けの測定会も行われ、2016年リオパラリンピックでボッチャ混合団体に出場し銀メダルを獲得した木谷隆行選手も参加されていました。
最後に、中西麻耶選手がこの測定会に参加した思いについて伺いました
2020年が決まった時に大分にいると、東京と大分では距離感を感じてしまっていて。なんとなく、自分達とは関係ないと思ってしまう方が多かったんですね。
そうじゃなくて、日本という国で開催されることなので、地方にいながらでもできる事をしなきゃいけないし。地方にいながら、東京大会に絡んでいく努力をしていかなくてはいけないと思うんですよ。
今回も2020年に、出場できる年齢の子もそうでない子もいるけど、双方がしっかりとした形でスポーツに関わっていけるように
、スポーツを通じていろんな事を感じてほしいですね。
スポーツには人生を変えるキッカケになるものなんだと感じてもらって、ずっと関わりを持ちながら、スポーツと共に成長していきキッカケになってくれたらなと思います。
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